母子像東京大空襲・戦災資料センター

来館された方の感想ノートから

センター2階に置かれている「感想ノート」の内容はすべて記録し、保存しています。
今回は、体験者の方々の声と次代の若者たちの感想を掲載させていただきました。(2010年2月に発行された『戦災資料センターニュース No.16』より転載)。


体験を活かし、次へ語り継ぎ、明日に生きる

日もあれば、十分な時間だろうと思ったが、それは誤りだった。再び来館してゆっくりみたい。[無記名の方]

は卒業論文でこのことを調べているので来ました。私は17歳ですが、次世代にわすれてはいけないと伝えられればいいなと思う。また来ます。[U.M.さん(女性)]

度は次世代の人々を連れて来ます。[Y.H.さん(男性)]

和教育の皆さん10数名で来ました。高校生の被災樹木の研究、たいへん地味な研究ですけれど、生きとし生きるものに対する戦争の悪に、樹木も植物も動物も怒ります。[無記名の方]

民学校の六年生でした。対岸の飯田町に住んでいました。夜中というのに燃え上がる火で夕方の明るさ。その飯田町の家も5月25日の空襲で焼失しました。[世田谷 S.さん]

本軍の重慶への空襲について、被害だけでなく加害を伝えています。徴用朝鮮人の資料も。それにしても、ルメイ司令官が、旭日大綬章を受けていたとは驚き。醜悪というか、悪夢です。[無記名の方]

っと生きたかったであろうことを想うと、命を引き継いだ者は大切に精一杯生きねば・・・。[札幌 シマダさん]

ば近く住んでいながら・・・。今日、初めておとずれ、当時を思い出しました。余生を平和の為に捧げる事を祈念し、死者の冥福を心からお祈り申し上げます。合掌[江東区北砂 H.K.さん(男性)]

家とは決して国民を守ってくれるものではない。国のいいなりになってどれだけの命が奪われたのか。平和を守る為に何が必要なのか考えさせられました。[O.さん]

京でのこの活動に励まされ、大阪でも市民の手で資料館をつくりたいです。[大阪市 K.Y.さん(男性)]

9条だけは変えたくない。[西東京市 K.さん]

縄に行ってきました。基地、米軍の施設があちこち、とありました。辺野古の海、ここに滑走路ができたらたいへんです! こんなことを体験したので、久しぶりに又、この資料館を訪ねてみたくなりました。体験者のお話も聞けて本当に良かったです。[K.M.さん(女性)]

時5歳だった私は、本所で空襲に遭い、さいわいにも家族全員無事でしたが、死者を横目に歩いた記憶はかすかに残っております。忘れてはならない事です!![江東区大島 M.K.さん(女性)]

年もこの季節(時期)が巡ってきた…。沈丁花の香りに誘われて。一昨年偶然会った従兄、伯母も一緒です。[千葉県 N.さん]

6歳で国民学校入学直後に当時の小石川区丸山町40番地で「焼け出され」ましたが、調べにうかがいました。生家の所在も、地図ではっきりし、亡き父に聞けなかったこともわかりました。[長野県 無記名の方]

学校1年生、城東区北砂町8丁目に住んでいて、空襲に見舞われ、家も工場もなくし、その後の苦しい生活に入りました。今迄はただ、くやしい思いのみでしたが、今日ビデオを見、私より苦しんでいた人がいると思うと、私は家族全員助かっただけでも幸せだったのだと思われました。戦争のない世の中が続く事を願っております。[千葉県 K.M.さん(女性)]

島や長崎へは二度程行き、資料館を拝見しましたが、東京で育った私にとって一番身近な場所で起こった出来事を目の当たりにして、とても衝撃を受けましたし、今後年月が経てば経つほど被災された方々も少なくなり、過去の話となってしまうのはだめだと強く感じました。実体験はなくともずっと語り継がれ、忘れることなく、この事実が後世に続くよう、自分も何かしら行動を起こして行ければと思います。[S.Y.さん(女性)]

和17年3月生まれです。父は兵隊で満州、末っ子だった自分は母と平井でくらしていた。他の兄弟は学童疎開で各地に行っており、空襲の時は母の背におぶさって逃げた…という事で、自分の記憶は全くない。ただ、この時の映像や写真、絵等を見ると何故か涙が出るし、又みぶるいをする。記憶の外で、身体にしみついた何かがあるだろうな!とにかく戦争は駄目だ。[江戸川区 S.T.さん(男性)]

くの写真・資料は事実として、そして絵や文字には多くの方々の想いとして強く心に響きました。もはや平和を祈り、願うだけでは何も変わりはしないと思います。[北海道の大学生さん]

争が生み出す利益よりも、より利益のあがるもの、戦争にかわる代替産業や経済を確立することのほうが、より現実的であると思います。戦争に頼ることない社会を築くこと、戦争の必要性をなくしてしまうこと。[北海道 H.さん]

襲体験をされた方の話はあまりにも生々しく、人間が燃える映像、話は胸がつまる。絶対戦争はダメ。9条を活かし、守る大切さが今程必要ではないか。[かしわ9条地域の9条を考える会 O.I.さん(男性)]

の生まれた場所にやってまいりました。母は、小学生の低学年で焼け出されて、千葉県にやってきました。貧乏で過ごしてたいへんだったと。でも、家族全員が無事でそれが一番よかったんだなあとここにきて思いました。母は、川に飛び込んで一時は死にそうだったらしいですが、今はぴんぴん元気であります。[Shidaさん]

広市で旧制女学校2年になった時でした。出張中の父が東京で空襲にあいました。被災したという明治座の前より土をもって帰り、お墓を作りました。私も80歳になり、今日娘に連れられ、テレビを、もしや父が……の思いで見つめました。資料を残された皆様に心より御礼申し上げ、二度と戦争がなき様祈っております。[札幌市 O.T.さん(80歳・女性)]

3月20日、母のお腹の中で小石川でむかえたそうです。母が生き残った事で今の私がいます。なくなった方のごめいふくをいのります。[無記名の方]

鷹の中島飛行機で、爆弾の雨の下を逃げ惑っていた中学二年生動員学徒である私が、あの夜池袋の自宅から大空襲の惨状を遠望し、猛火の壁を眼に焼き付け、炎の熱さを身体に記憶しました。[無記名の方]

り継ぐ・・・という行為の大切さを確認する施設です。[練馬区 Y.M.さん(女性)]