母子像東京大空襲・戦災資料センター

川の向こうから2日2夜にわたって、命の縮まる思いで見ていました。東京の人は、みんな死んじゃったんだと恐ろしさにふるえあがって、真っ赤な空を見て、泣いていました。そのうちに、命からがら体にまとった着物、外とう、毛糸のセイター、スカートなど、焼けこげてぼろぼろな姿で川口に逃げてきた人にだきついて、死ななくてよかったねと涙を流したこともありました。[I.M.さん/女性]

の妻が、当日木場で体験しています。戦争は人間を狂気にします。[北区東十条 I.K.さん/男性]

災後60年ぶりここに来る事が出来ました。私は江戸川区小松川4丁目で戦災にあい小松川橋を渡るとき爆弾の下をかいぐぐり、生き残りました。[栃木県 E.H.さん/男性]

『食べもの文化』8月号で戦災資料センターと「二瓶はるよ」さんのお名前を知り、その後NHKのラジオで再びお話きき涙がでてきました。今日小3の娘と2才の子どもと夫と来ました。娘は「ガラスのうさぎ」も読み、「ガラスのうさぎ」のアニメ映画も先日見てきたところです。学童疎開体験者の父もこの3月亡くなりました。また戦争を語る人がいなくなってしまいました。[静岡市 T.A.さん/女性]

国見学ツアーの一環として、この資料館を訪れた約60人の1人です。広島の原爆資料館は数回訪れましたが、ここは初めてです。私は、「ガラスのうさぎ」の高木敏子さんの思いを広く伝えようと思っています。仙台大空襲(1945.7.10)の体験者です。[川崎市多摩区 K.O.さん/男性]

親、弟と妹は大島5丁目19番地にて被災。命からがら新潟にたどりついたが、被災してない私はその状況が分からなかったので、今回この資料センターのことを知り、訪れた。当時の同級生、近所の人にその後どなたも会ってない。今どうしているのだろうか?[愛知県 S.T.さん/男性]

ぜ死ななければならなかったか。死ななければ、今日の日本がなかったのか。死なない方が、もっともっとすてきな日本になっていなかったか。「なぜ」を問う状況があやうい時代。「なぜ」を意図的におおいかくす人たち。ひとつの事実から真実を掘りおこすことの大切さ。想像力をもって、次世代は受けつぐ。過去はいかなることも語りつぎ、うけつぐためにある。[十和田市 T.T.さん/男性]

スを降り、初めてなので地図を見てもわからず、通りかかった婦人に尋ねました。その方はわからないようでしたが、近くまで案内して下さいました。本当に親切にして頂きました。東京大空襲のビデオ、初めて拝見させて頂きました。日本橋高島屋の近くで理容店をしていましたが、丸焼けで叔母は2歳位の子供をおぶって藤沢の叔父の実家に来ました。記憶が薄れていくような気がします。[藤沢市 I.M.さん(77歳)/女性]

京の被災区分図(3階)。焼夷弾の実物、ピアノ、おひなさま。ここの価値は代えがたい。[埼玉県 Mさん]

砂二丁目から歩いて10分、この建物から100m程の所で小学生5〜6人にセンターの場所を聞きましたが、知りませんでした。何と云う事でしょう。私は3月10日焼けだされました。ようやく念願を果たした思いです。[Y.T.さん/女性]

島の資料館に比べてあまりにも見劣りする当センターを拝見してビックリいたしました。後世にも語り続ける為にも国・都がもう少し真剣にとりくんでいただきたという思いを強くした次第です。[M.T.さん(65歳)/男性]

知県から家族4人で来ました。中学3年生、15歳の双子の息子達の心にも、きっとズシリと重いものが響いたと思います。戦争は“悪”そのものです。戦後60年の今、新たな戦前にせぬため、私たちの大切な息子達が、殺すことも、殺されることも、決して望みません。貴重な資料館が、平和のとりでとして末長く、大切にされますように。[K.K.さん(41歳)/女性]

学校6年生の娘と一緒に来ました。これまでいろいろ見たり聞いたりしましたが、ここまで戦争を身近に感じられる資料館にはびっくりです。無差別大量殺人。今も地球のどこかで起きていると思うと、悲しい想いです。[無名]

っと念願の場所、ここに来られた。都の慰霊堂にお参りして来て、ここに来ました。センターの地図をたよりに来ましたが、ちょっと判りにくかったです。友人も来たいと思っているが、ちょっと不便な所で行きにくいとの事だ。残念に思います。しかたがありません。しかしながら、民間でこれだけの施設をよくぞ建設して下さった。[川口市 K.M.さん/女性]

の3月9日の夜、地獄だった。忘れる事はできない。あさ黒い煙の上に大きなB29を見た時、もう駄目かと思った。焦げた死体に何も感じない虚無感に襲われた。あの日こそ原点。[S.H.さん/男性]

学の方々を連れて参りました。今までは広島に引率することが多かったのですが、みなさんのご努力に感動しています。ハトバスなどを避けて直接この資料館を訪ねてよかったと存じます。[S.H.さん/男性]

 当日 亀戸 花王ニ学徒動員ニテ生延ビタ者デス。感無量ノ思イ。[千葉県 H.N.さん/男性]

時、学生であった私は、3月10日の空襲の翌日この一帯に足を運び、遺体の悲惨さを心から感じたものです。当時の貴重な資料を拝見し、思いを新たにするとともに亡くなられた方々のご冥福をあらためてお祈りいたします。 [熊本市 M.K.さん/男性]

めてうかがいました。東大島に住んでいて、近くなのに今までずっと来られませんでした。橋本代志子さんのお話を聞いて、私の母も当時13歳で豊島区で空襲にあい、弟の手を引いて逃げたと話していました。[A.R.さん/女性]

は小学校1年の終わり。深川の親類を捜して、父と翌日行ったのを思いだした。両国の駅は死体の山。それから1ヶ月後、私の滝野川の家も焼けた。[F.K.さん/女性]

問介護の利用者が東京大空襲の経験者が多く、当時の現状を知らないままにお話を伺っていました。これを機に新たな気持ちで接することができます。[無記名]

東区〜深川地区がこんなにもヒサンな事とは思わなかった。さぞつらかったろう。また時間を見て来ます。[G.I.さん(69歳)/男性]

く訪ねることが出来ました。私は2月25日に一度焼け、3月10日は二度目でした。祖母を失いました。