母子像東京大空襲・戦災資料センター

来館された方の感想ノートから

センター2階の「感想ノート」には、毎日多くの方が記入されています。今回は、3月のリニューアルオープン以降6月までの何人かの方々の感想文から引用させていただきました(07年7月に発行された『戦災資料センターニュース No.11』より転載)。


リニューアルに寄せて

開、初日に来館出来て、幸運でした。戦争体験者最終の世代の一人として、語りついでゆかなければと肝に銘じました。[M.K.さん・75歳男性]

黒区自由が丘から2時間かかって参りました。元気で動けるうちは、この様な戦災資料センターを是非見せて頂きたく思っております。東京大空襲を新宿駅にてにげ廻った若かったあの頃が、今でもはっきり目にやきついてはなれません。関係者の皆様ご苦労さまです。[Kさん・78歳]

ずはセンター増築、おめでとうございます。以前に比べて資料が大変見やすく判りやすくなった感が致します。その眩しさが、“あの日”犠牲となった方々への一筋の光明となればと祈るのみです。[千葉県 N.Y.さん・女性]

派なセンター増築おめでとうございます。前から一度訪ねようと思って、今日念願を果たしました。昨日、62年ぶりに裁判に立ち上がられた罹災者の方々に心から連帯の意を表します。戦争の被害は均しく受忍しなければならないという国の論理、倫理を打ち破る国家に対する個人の権利を明らかにしようという壮大な争いだと思います。勝利を祈っております。[福島県 H.H.さん・73歳]

乙女館長は新聞への寄稿で「手狭な資料館」と述べられていましたが、屋外の展示を含めて大変充実していました。今後、センターの拡張時に追加すべき展示内容としては、無差別爆撃の歴史(ゲルニカ、重慶、楽山、ドレスデン、東京以外の日本の諸都市の被害)、B29自体の性能、特色(模型が大小2つ展示されていますが、飛行高度、乗員数、爆弾、焼夷弾の搭載量などのデータも掲示すべき)の紹介などが考えられるでしょう。[千葉県 M.S.さん・34歳]

語り継ぐ世代から

は、ちいちゃんのかげおくりを見て、ちいちゃんがかわいそうになりなり、なきたくなりました。あと、かみしばい(東京大空襲)を読んで、かなしくてたまりませんでした。[無記名]

後60年にあたる2005年より毎年当館に来ており、今回で3回目になります。今後も当館を何回も利用し、東京大空襲のことを勉強していきたいと思います。また、当館をもっと多くの人たち(特に私と同次世代に)伝えていかなければ。[27歳男性]

岡県浜松市のろうあ者手話9条の会一行20人で見学させていただきました。戦争をしない、されないよう、がんばらねばと強く思いました。[無記名]

夷弾という武器を父の説明を聞き、現物や模型を見てよくわかりました。空襲は、非戦闘員である一般の人を殺すため、生活を壊すためなのだ。過去も現在もこれからもどんな戦争も私たち穏やかで安全な生活をうばう行為でしかありません。しっかり次の世代に伝えなければなりません。ありがとうございます。[小平市 Y.R.さん]

争は歴史の勉強や話の中でしか知らなかったけど、ビデオでその様子を見たときは、その場にいるような恐怖感におそわれて、ただ呆然とするしかありませんでした。命を奪うだけの力は何にもならないと思いました。[山形県酒田市 S.S.さん・中学3年生]

っと命を大切にしようと思いました。[岩手県 O.M.さん・中学生]

学旅行生が続々とピアノの鍵盤をたたく。空襲も知らず、戦争も知らぬ中学生。ピアノの響きは62年前を伝えたか。教育の原点は伝え続けること。[兵庫県 Kさん]

歌山県M中学校一同です。戦死した皆さんありがとうございました。今の平和をしっかり守っていきます。

25歳の学生です。戦争など全く知らぬ世代ですが、できるだけ事実から目をそらさぬように努め、平和への意識を持って生きていきたいと思います。この平穏な東京にも恐ろしい戦災の歴史があったことを肌で感じ取りたく思い、インターネットで検索して参りました。[無記名]

くで仕事をしており、たまたま目に入った場所なので立ち寄りました。私は常々、平和や人権等に深く考える事があります。真の平和とは、皆様方の展示や、一人一人事実をしっかり伝えゆく事こそ二度とおなじ過ちをおこさない事だと思います。平和や命の尊さを忘れかけた時、又この場所を訪れる事が大切だなと思いました。[大田区 37歳男性]

島も東京大空襲も熱風には、変わりない。溶けた瓦など似ています。語り継ぐ戦争、戦災。[K.A.さん]

体験世代から

校で、もっと教えるべきである。私も教わらなかった。近代史を正確に学ばなければ。[女性・57歳]

和19年11月に城東区大島で被災しました。それにしても、3月10日迄大島にいたら、幼児2名(私と生後1年未満の妹)をかかえて、恐らく母は(勿論私共も)生きていられなかっただろうと思うと、不思議な気持ちがします。[東京都江戸川区 S.T.さん]

段の坂の上も全部焼けました。靖国神社に逃げていっても、兵隊が中に入れてくれません。おかげで、おばあちゃんは死にました。今でも忘れません。靖国神社なんて、人が住んでいないのにどうして入れてくれなかったのか、今でも不思議です。[東京都千代田区 S.M.さん]

は昭和8年生まれ。敗戦の日は(小)6年でした。軍国少年でした。戦争体験を次の次の世代に伝える必要があります。この資料センターのご努力に心から敬意を表します。(指が不自由なので)乱筆多謝。[M.I.さん]

「戦争の辛さ、残酷さを伝えたい」
修学旅行で訪れた中学生の感想文

愛知県内の中学校のみなさんから

争による辛さが身にしみました。「ほしがりません、勝つまでは」。陶器で作った学生ボタン。軍人将棋や戦争の絵がついたメンコなど、子供の遊びにも戦争の内容を取り入れているなんて信じられませんでした。帰る前「知る」ということは大切なことだと教えていただき、その言葉の意味がだんだん分かるような気がしてきました。

いと思えたのが、資料センターそのものでした。実際に体験した人達の手によって、できたこと。当時の遺品や写真、絵などが集められ、また、当時の様子が語り続けられ、現代の人達に伝えていることです。僕は胸がうたれました。

災者の橋本さんのお話。17歳以上の女性、ほとんどは軍事工場へ行かなければならない。幼い女の子が軍事工場で兵器をつくらなければならない。わたしは泣いてしまいそうでした。

争により、子供を守るために親が疎開させたけれど、その結果、孤児となり今でもつらい思いをしている人がいる。まだ戦争の傷はいえていないと思いました。

空頭巾をくれた橋本さんのお母さんの話を聞いた時、もし自分の母だっら・・と。見渡す限りの焼け野原と死体の山。二度とこんなことがあってはいけないと思います。

岐阜県内の中学校のみなさんから

瓶さんの話。感情がなくなるほど残酷なものだったと思います。人の死を目の前で見ていることだと思います。そんな残酷な戦争をもうしてはいけないと思いました。次の世代へと戦争の残酷さをちょっとでもいいので伝えていけたらいいなと思っています。

瓶さんが「人の命は人の心のやさしさでつながれているんだよ」と言われて、人のやさしさで救われたからその言葉はとても大切な言葉だと思いました。平和な世の中が続いていけるようにしたいです。さらに、戦争の恐ろしさをみんなに知らせ、戦争についてもっと調べて知っていきたいです。

日で友達や近所の方が亡くなってしまうから悲しいことだと思いました。消防士がホースを持ちながら燃えて亡くなってしまったり、人が燃えながら走っていた。想像もできない悲惨なことが起きていたのだ。僕の祖母も戦争を体験し、満州でつらい思いをしたという話を聞きました。平和を願って、つぎの世代にも伝えていきます。