センター、新時代へ
 (戦災資料センター・ニュース No.34より)  私のコラムも今回が最終回です。  思えば、1970年に東京空襲を記録する会を起こしてより約50年、次いで民間募金による当センターの設立・開館からも17年。私もこの3月で87歳になり、体調面の都合から本年6月にて館長役を降りることとなりました。センターは新しい時代に移行しなくてはなりません。  と、言いましても、突然プッツンといなくなるわけではありません。まだあの世に逝くわけにはいきません。私のライフワークたるテーマと、センターの主目的とは一体のものですので、その後もできるかぎりの協力をしていく所存です。  よく講演先で「お若いですね」のお言葉をいただくのですが、若くないからそう言われるのであって、このところ目も耳もめっきり調子が悪く、足は容易に前に出てはくれません。80代の急坂を転げ落ちるような日々ですが、誰もが経験することで、仕方のないこととは思います。ポンコツだらけの身体となりましたが、私なりの発言と執筆は、生きているかぎり続けていくつもりです。  今年の政局は重大な正念場を迎えております。迫りくる荒波が平和と逆行するからには、当センターの進路も無関係ではありません。これからも皆様と固く手を結んで、東京大空襲の惨禍を、二度と繰り返させぬ決意を発信して参りたいと思います。元号が変わるからといって、戦禍の歴史が帳消しになるわけではないのですから。  これからもどうぞセンターをよろしくお願いいたします。 早乙女勝元

平和創造のパワーを
 (戦災資料センター・ニュース No.33より)  昨年夏のさなかに、東京新聞から原稿依頼の電話がありました。夕刊連載の『この道』に登場はいかが、とのこと。そのコーナーは、大企業の社長さんや著名な文化人による自伝的な読み物で、著者に入れてもらえたのは幸せでしたが、私もついにそんなトシになったのかと、少々やるせない気がしました。  しかし、当戦災資料センターを紹介するのには、願ってもいない機会です。現在のセンターの活動から遡り、私の生い立ちと四苦八苦の青壮年期をへて、また現在のセンターに着地する、という構成でなんとか書き上げました。連載第1回目で登場するのは、昨年夏の特別企画で活躍した若い世代です。センターの展示品にまつわる小話や、支えてくれたスタッフ、来館者との出会いや交流などを書き連ねながら人生の振り出しに戻るという、『この道』ではやや異色な連載だったかと思います。このほど連載分は、『その声を力に』の1冊にまとめました。  思えば、これまで過ごしてきた人生の前半までは、折にふれて書いてきましたが、86年の生涯を振り返り、改めて俯瞰したのは初めてでした。人は悩みや迷いの渦中にいると、容易に理性を保ちにくいものですが、当時八方ふさがりかと思えたことに、光が見えてきたのは、余分な苦労を経てきた加齢のせいか、老いも捨てたものではないという気がします。  書くことは、自分をつきつめることでもあります。夢中で走りつづけてきた過去を見つめ直すことで、残りの人生を自分らしく生きたいし、生きていてよかったといえる社会を、次世代に確実に手渡したいのです。  この夏、戦争体験なしの来館者が、またたくさんセンターにやって来ます。当センターで平和創造のパワーを得られますように、いささかなりと、そのお役に立てれば・・・と今日もペンを走らせつつ願っております。

わかりやすさと、感動的な…
 (戦災資料センター・ニュース No.32より)  当センターは開館16年。維持会員や協力者の皆さんは、ずっと空襲体験者が主力でしたが、これからは非体験者が中心にならざるを得ません。  開館以来、初めての試練で、この大波を乗り切っていくためには、民主主義と社会正義に裏づけられた斬新な企画力が必要です。  センターは目下、内外の知恵を結集した展示リニューアルの検討中ですが、体験のない人たちにも受け入れやすいわかりよさと、感動的な展示――追体験できる想像力を喚起できるような、とは私の願いです。  しかし、限られた空間に、これを具体化するのは容易ではなく、さらに知恵を絞らなければなりませんし、予算も必要です。皆さん方のご支援をお願い致します。  ことしは、憲法9条の重大な危機になるやと思われますが、当センターは戦争否定と平和への希求を、積極的に発信して参りますので、よろしくどうぞ。

開館15年で想うこと
 (戦災資料センター・ニュース No.31より)  ことし、東京大空襲・戦災資料センターは、開館15年となります。日ごろの皆さんのご協力と、スタッフ一同に感謝いたします。毎年好評の夏休み特別企画も近づき、てんやわんやの日々かと思います。  さて、その特別企画ですが、昨年夏にたまたま手伝いに来ていた東京成徳大学の学生二人が、これをきっかけに空襲に興味を持ち、大学で自ら空襲展を開催し、反響を呼んでいるという記事が4月の朝日新聞東京版で取り上げられました。この空襲展はなかなか好評だったようで、孫のような世代の活躍に私自身が大変おどろきました。種はまかなければ実りませんが、はぐくむ土壌もまた必要です。私どものセンターが15年をへて、確実にその場所になりつつあることを実感し、養分を与えてくれた皆様にも感謝する次第です。  その昔、よく口ずさんだ歌の一節に、「死んだ親が後に残す宝物は何ぞ…」とありましたが、今にして思えば、宝物は平和憲法だったのだと思います。私の代でそれを手放すわけにはいきません。戦争はまっぴらごめんで、戦争につながる道には孫たちの手を借りてでも、NOの声を上げたいと思います。  それこそ、「千載に悔いを残さぬために」と想う日々です。当センターは、目下リニューアル募金と工事入りするところです。私も85歳。次世代の活躍を見届けるまで、もうひとふんばりです。

開館15年、維持募金のお願い
 (戦災資料センター・ニュース No.30より)  この三月で、「東京大空襲・戦災資料センター」(以下センターと略す)は開館15年を迎えます。皆さんのお力添えによって、いのちと平和の尊さを、17万人余の来館者に継承できましたことに、心から御礼を申し上げます。  15年の実績の上に、新たな課題がいくつか。その一つは来館者をより安全に、博物館機能を充実させるべく、構造変えを含むリニューアルの必要性に迫られている。二つは激動する内外の情勢を踏まえて、展示を見直す時にきたこと。しかし、維持会員は増えることなく、財政状況は厳しくなりつつあります。  そこで、まことに心苦しい次第ですが、当センターの社会的意義をご理解いただきまして、特別のご協力の程、よろしくお願い申し上げます。 また、身近な人にお声をかけて下さいまして、維持会員と支持協力者を、一人でも多く募っていただければ幸せです。

みなさんの友情にありがとう、と
 (戦災資料センター・ニュース No.29より)  当センター初期の語り継ぐ集いで、作家の西村滋さんに講演をお願いしたことがある。大変好評だったが、その西村さんの訃報が届いた。漫画チックな似顔絵の上に、こう書かれている。   生きる よろこびを/食べさせていただきました   みなさんの友情を/おいしく頂きました   ありがとう さようなら 「献体2016年5月21日」を書き入れるだけの書式で、享年91、あて名まで本人の手書きである。ぬかりなく生前に用意していたものと思われる。映画化された名作『お菓子放浪記』(講談社文庫)を始め、生涯を通じて戦争孤児のことだけを書き続けてきた氏の旅立ちに、感無量だった。  たまたま時を同じくして、当センター監修での『東京復興写真集1945~1946』(勉誠出版・価1万円+税)が刊行された。戦後の廃墟から立ち上がった人びとの日常を伝える大写真集だが、この本にも焼け跡や駅構内に群がる戦争孤児のスナップがかなりある。極端な飢餓の時代を、かれらはどう生き抜いたことだろう。私も飢えていた1人だったから、著者自身が孤児だった西村作品に共感し、自作のような愛着を覚えた。わが家での話し合いで、朝を迎えたこともある。 「戦争は絶対にダメだよ。戦争への道にはすぐにブレーキを、ストップを!」 そんな西村さんの声が遠くから聞こえてくるかのようである。西村さん、安らかに眠らずに、子どもたちの未来と、当センターの行く末を、あの世から見守っていてね。  さようならは、いわないことにします。

センターの役割さらに重く
 2013年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.22より)  戦後という言葉もぴんときませんが、ことしは68年です。あの年に生まれた赤ちゃんも古希2年前で、戦後70年の節目が急接近してきました。  人間の体験は60年で歴史に移行するそうですが、その説に10年を上乗せすれば、戦争はこりごりだという人の語りや主張は、ほぼ終了です。そして、戦争を知らない世代ばかりになるわけで、その後に生きる人びとに必要不可欠なのは、追体験による知性ではないでしょうか。  都民の戦禍追体験のカナメたる当センターの役割はさらに重く、目下、中・高校生にもわかりやすい特別展示や、空襲体験者の証言映像収録など、スタッフ一同けんめいに奮闘しています。戦争を防ぐと一言にいいますが、それには戦争が民間人にとっていかなるものだったかを知ること、学ぶことが先決で、その営為が、これからの平和を確かなものにするはずだからです。  かくいう私も、追体験のお役に立ちそうな三冊を出すことになりました。[1]はその昔、いわさきちひろさんの絵でまとめた戦中の物語『ゆびきり』で、2月中に新日本出版社から。1、2カ月遅れで[2]が『東京空襲下の生活日録──銃後が戦場となった10カ月』(編・東京新聞出版部)、[3]は『私の東京平和散歩』(仮題・新日本出版社)と続きます。  ケイタイの普及で、必要な本ほど苦戦する状況ですが、「国防軍」に「集団的自衛権」「憲法改正」などの主張が声高になりつつある現在、いつか来た道入りはまっぴらごめん。「忘れない、諦めない、無力ではない」と自分にいいきかせながら、皆さんとご一緒に平和のバトンを次代に、と思う日々です。

ハロラン氏のこと、そして……
 2012年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.21より)  私事で恐縮だが、『ハロランの東京大空襲』が新日本出版社から刊行されたのは、この春だった。  ハロラン氏は、太平洋戦争の末期、東京を爆撃したB29の搭乗員だった。22歳。日本軍機との戦闘で被弾した機から、パラシュートで降下し、群衆から袋叩きにされたあと東京憲兵隊本部の独房へ。そこで3月10日の大空襲に遭遇する。  やっと一命を取りとめるも、次は上野動物園(?)で見せしめの虐待後、大森の捕虜収容所で終戦を迎えたという。  B29の搭乗員は、私どもにとっては加害者だが、氏は大空襲の被害者でもある。当時の自分の足跡を確認したいと来日した氏の東京案内に参加したことから、氏との交流が始まった。当センターの開館式には、自費で来日して挨拶をしてもらい、次はこちらからアメリカのお宅で聞き取りをするなど、友好関係が深まった。  氏は何度か来日し、センターの増築時から毎年200ドルの小切手を送ってくれるようになった。しかし、爆撃については「命令に従ったまでで、謝罪はできない」という。戦争をめぐる加害と被害との関係は、ついに和解に至ることなく平行線のまま、氏は昨年89歳で亡くなった。  拙著はその交流の記録なのだが、反響は大きかった。ごく最近も、読者の1人から現金書留便が事務局へ届いた。  「戦災センターの維持費として、ハロラン氏に替わって、今年から、息の続く限り届けたいと思います」  岩国市に住む64歳の男性で、2万円が同封されてあった。「息の続く限り」の1行に、ああ、こういう人もいてくれるんだと、胸が熱くなった。開館から10年、当センターは平和を願う内外の皆さんのご支援で、内容をさらに充実させ、これからの展望を開きたいと思う。

開館10周年で、新たな1歩へ 手と手を結びさらに支援の輪を
 2012年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.20より)  この3月10日で、戦災資料センターも、開館10周年を迎えます。  おかげさまで、来館者はすでに10万人を超えました。若い研究者たちの活動拠点にもなり、さまざまな成果を挙げつつあります。たとえばDVDブック『東京・ゲルニカ・重慶』を岩波書店から、ビジュアルブック『語り伝える東京大空襲』(全5巻)、さらに個人的に『ハロランの東京大空襲―B29捕虜の消せない記憶』(10頁参照)を、共に新日本出版社から刊行し、証言映像プロジェクトも着々と進んでいます。  東京大空襲・戦災の語り継ぎと研究は、10年の実績を踏まえて、新たな1歩を―というところで、難問に直面しました。  昨年春の東日本大震災です。天災は人災に移行し、原発による未曾有の大事故は放射能の飛散で、私たちの日常を「非日常」に変えてしまいました。センターもその影響により、年ごとに増加していた修学旅行生徒らの来館が全国的にキャンセル続き、昨年の来館者半減という非常事態を迎えました。目下、徐々に回復中ですが、このピンチをどう乗りきって、新たな展開へつなぐかが、ことしの課題です。  センターを支える皆さんは、70代後半がもっとも多く、「開館10年まではなんとかするが、そこまでに」の声を耳にします。しかし、国会に憲法審査会が始動したこの時期に、平和への種まき事業を減速させるわけにはいきません。維持会員ならびに協力者は共に手を結び、センター支援の輪を、さらに広げていただきたいのです。  かくいう私も、この3月末で80歳。大役も潮時かなとひそかに思っていましたが、もうひとふんばりと心しています。よろしくお願いする次第です。

これまでの実績を踏まえて 来春は開館10年の節目です
 2011年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.19より)  私どもの戦災資料センターも、来年で開館10年の節目を迎えます。  寒空の下での開館式が、昨日のことのように思い出されます。東京大空襲の惨禍の継承を掲げて、民間募金に踏みきったものの、雲をつかむような話でした。にもかかわらず、皆さんのご芳志で見事に竣工した時には、胸に溢れるものがありました。  全国各地からの来館者は、もう少しで10万人です。それが急に足踏み状態となりました。東日本大震災の影響で、東京への修学旅行がキャンセル続きの激減。財政的にもかなりの打撃ですが、目下、来年度の予約が増えつつあるのは救いです。  これまで、年に平均1万人余の来館者を迎えたことになります。「炎の夜」の10万人もの声なき声を、けんめいに語りついで、10年近くを要したことを考えますと、そのいのちの重みに、目がくらむような気がします。しかし、年ごとに増す修学旅行生徒への継承は、未来世代への、平和の種まき仕事かもしれません。  「死んだ人たちの分まで、私たちは生きなければいけないのです。過去は変えられません。でも、これからの未来を変えることはできます。それは東京大空襲を通して、今の私たちがどうするかにかかっているのです」  そんな中学生の感想文を読むと、平和の種が、かれらの心に届いたことがわかります。しっかりと根をおろし、それぞれの個性ある発芽期が、これまでの実績を踏まえた来春からの期待であり課題です。  道理に感動が加われば、人は変わるのです。ましてや10代の多感な思春期には、一冊の本、一本の映画ででも、心の震える瞬間があります。それがその人の「初心」になるのだとすれば、当センターとの出逢いは、平和への主体的な糧にもなりましょう。  さらなるご支援を、お願いする次第です。