巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.45より)ここ数年、英語圏からの来館者が目立って増えています。外国人観光客の増大やSNSの普及に加えて、ウクライナやパレスチナでの戦争が、空爆に対する関心を呼び覚ましていることが背景にあるようです。センターとしても、こうした国際化への対応に苦慮しているところですが、うれしいことに、アメリカのイェール大学からの提案で昨年からインターン制が始まりました。日本史を研究している学生や院生を日本に派遣し、学芸員としての実習や日本史の講義、フィールドワークなどを体験してもらう制度です。センターからすれば、英語のキャプションやリーフレット、英語版のウェブサイトの作成などに全面的に協力してもらえるというメリットがあります。時には英語でのガイドも引き受けてくれますし、インターン生たちは非常に大きな「戦力」になっています。1階展示室で流れている故・早乙女勝元館長の映像に、英語の字幕を付けてくれたのもインターン生たちです。この制度を定着させることができれば、センターにとって大きな財産となります。皆さんの協力も得ながら、力をあわせてこの制度を発展させていきたいと思います。また今後の課題としては、本土空襲で日本軍の捕虜となった連合軍の搭乗員に関する展示、特に日本軍による戦争犯罪の展示も必要になるでしょう。そして、さらには英語圏だけでなく、韓国や中国にもセンターの存在を発信していきたいと思います。がんばりましょう。

巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.44より) 皆さん、あけましておめでとうございます、本年もどうぞよろしくお願いします。今年のお正月は、元旦から痛ましい報道が続き、胸が痛みます。なくられた方々に深い哀悼の意を表します。富山県には、私の大学教員時代の教え子が4名います。仕事は、県の職員、電力会社勤務、新聞記者、医師です。4人とも仕事柄、災害支援で多忙を極めていると思いますので、連絡を控えていますが、やはり近況が気になります。一人一人の教え子の顔を思い浮かべながら、再び酒を酌み交わせる日の近からんことを切に祈っています。 自らも空襲体験者である、俳優の仲代達矢さんが、ある新聞のインタビューの中で、痛みを経験しなくても、その痛みを想像することはできるはずだ、その想像力に望みを託すしかない、と語っていました。心にしみいる言葉です。私たちの多くは、戦争を直接体験していません。しかし、体験者の証言に耳を傾け、歴史から学ぶことによって、戦場や被災地の凄惨な現実を想像することはできます。東京大空襲・戦災資料センターは、そうした想像力を鍛える場として、今まで以上に大きな役割を果たしたいと思います。私も今年からシルバーパスをいただける歳になります。『日本軍兵士』を書いてから、もう6年がたちます。この間、平和をあざ笑うような言説に腹立たしい思いを抱いてきました。「遺恨十年一剣を磨き」ではありませんが、4年ほどさばを読んで、今年こそは続編を書き、反撃したいと思います。

巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.43より)先日、私の蔵書1万冊を寄贈した韓国の嶺南大学にある「吉田裕・石梧文庫」を表敬訪問しました。3年前に大学を退職した時、一番頭を悩ましたのは、古いけれど広くて天井も高い研究室に山積みになっている蔵書の処理でした。自宅はマンションで、家に持って帰るという選択肢はあり得ません。どうしたものかと思い悩んでいたところに、救いの手を差し伸べてくれたのが、知人の韓国人歴史研究者と石梧文化財団でした。そのおかげで私の蔵書は嶺南大学に引き取っていただきました。私の場合は幸運な事例ですが、大学を退職する先生たちが、蔵書を処分する場合も少なくありません。昔であれば貴重な図書は大学の図書館に寄贈することもできましたが、現在では、それはほぼ不可能です。大学図書館には人員の面でも予算の面でも、そうした余力はもうないからです。一方で専門書を取りあつかう古書店も減少しているため、退職の時にやむなく蔵書を捨てていくことになります。この国の文化行政の貧困さを改めて実感します。気になるのは戦争体験記などの行方です。こうした体験記は私家版・非売品などの形で刊行されることも多く、一般の図書館には所蔵されていない場合も少なくありません。そうした体験記が「遺品整理」の時に処分されているという話をよく聞きます。戦争体験記は先人たちが次の世代に残してくれた貴重な財産です。その散逸を防ぐために、知恵を絞るべき時に来ているのではないでしょうか。

巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.42より)皆さん、本年もどうぞよろしくお願いします。昨年5月に名誉館長の早乙女勝元さんが亡くなりました。改めて哀悼の意を表します。早乙女さんは1932年生まれでしたが、兵士で言えばだいたい1930年生まれの人たちが、最年少の少年兵として敗戦を迎えた世代になります。その人たちも90代ですから、一つの時代が終わろうとしていることを改めて実感します。2023年の今年から、明治維新から敗戦までの年より戦後史の方が長くなります。その長い戦後という時代を、私たちは、戦争とは直接かかわらずに生きてきました。日米軍事同盟を通じて、様々な形で「アメリカの戦争」に関与してきたとはいえ、武力行使の直接の主体とはならなかったという意味では、平和な社会を作り上げてきたと言えるでしょう。しかし、ここに来て逆流が急速に強くなってきたように感じます。早乙女さんの遺志を継ぎながら、今年は平和のために自分に何ができるか、自問自答する年にしたいと思います。

巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.41より)早乙女勝元・名誉館長が亡くなられた。心から哀悼の意を表したい。私は館長に就任するまで、館の運営に直接かかわったことはなかったので、残念ながら早乙女さんと一緒に仕事をしたことがない。ただ館長の交代の時に、私はもっと天皇制の批判をしたかったのだが、館長としての立場があるので抑制してきたという趣旨のことを語っておられたことが、記憶に強く残っている。空襲体験者には、当然のことだがいろいろな方がいる。都立の平和記念館を作るということになれば、保守党の議員にも働きかけねばならない。そういう諸々のことに配慮しなければならなかったということだろう。あるいは軽率で無頓着な新館長に対する戒めの言葉だったのかもしれない。早乙女さん自身は強い信念の人だったが、館長としては微妙なかじ取りを常に要求され、苦労を重ねられたのだと思う。早乙女さん、長い間本当にご苦労様でした。あなたの遺志をしっかり引き継ぎたいと思います。

巻頭言
(戦災資料センター・ニュースNo.40より) 数年ほど前に「戦争体験をいかに継承するか」という論文を書きました。ところが昨年、『なぜ戦争体験を継承するのか』という本が出され(みずき書林)、はっとさせられました。私たちは、戦争体験は継承されなければならないということを自明の前提にして、継承のための手段や方法について論じがちです。しかし身近なところに戦争体験者がいない若い世代に体験を伝えていくためには、やはり「なぜ」という問いの立て方が必要でしょう。時代の変化に柔軟に対応していくことが求められているのです。しかし、時代の変化に合わせるだけでは、現状の単なる追認になってしまいます。戦争体験の継承は、「風化に抗う」時代精神の中から生まれてきたものです。そこで今年のモットーを「しなやかに、そして偏屈に」とすることにしました。「偏屈に」には職人的研究者を自負する私のプライドが込められています。俳優で言えば高倉健さんのイメージです(しょってるなあ~)。

岐路に立つ全国戦没者追悼式
(戦災資料センター・ニュースNo.39より)毎年8月15日を「終戦記念日」として全国戦没者追悼式を開催するようになったのは、1963年以降のことです。今この追悼式自体が大きな岐路に立たされています。まず式典の意味が曖昧なままです。そもそも追悼の対象には外国人の戦争犠牲者は含まれているのでしょうか。日本人の場合は日中戦争以降のすべての戦没者とされていますが、満州事変の戦没者はなぜ含まれないのでしょうか。追悼式に歴史に対する反省という意味を込めるのならば、歴史の大きな転換点だった満州事変を含めるべきでしょう。また、遺族中心の式典も高齢化によって困難になっています。現在出席する遺族の中心は戦没者の遺児です。すでにかなりの高齢者であるため、最近では孫・ひ孫の出席も認めています。式典のありかたそのものを再検討すべき時期に来ているにもかかわらず、政府は動こうとしません。むしろコロナ感染防止を口実にして、式典の縮小という既成事実を積み重ねているように思えてなりません。

「老後」の夢の行方
(戦災資料センター・ニュースNo.38より)昨年3月に37年間勤めた一橋大学を退職しました。授業に追われる生活から解放されて少しほっとしています。退職後は各地の平和博物館をまわってみようと考えていたのですが、新型コロナの影響で思うにまかせません。安城市歴史博物館の企画展、「描かれた戦争」も見学に行くつもりでしたが、結局断念しました。警察官だった桜井純さんが描かれた戦争体験画に関する企画展です。名古屋空襲に関する貴重な記録でもあるだけに本当に残念です。それでも感染防止に気をつけながら、近隣の施設を訪れるようにしています。昨年11月には千葉県館山市にオープンしたばかりの私設図書館、「永遠の図書館」に行ってきました。ここでは、陸軍大尉だった飯塚浩さん(故人)の手記と蔵書を閲覧することができます。12月には、「ヒロシマ連続講座」の竹内良男さんの車に乗せていただいて、武蔵村山市にある「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶のみ処」に行ってきました。戦争で心の傷を負った元日本兵の家族の交流の場です。館長の黒井秋夫さんは、とてもエネルギッシュな方でした。感染が何とか収束して、「老後」のささやかな夢を実現できる日がめぐってくることを願っています。

展示のリニューアルを終えて
(戦災資料センター・ニュースNo.37より)新型コロナウイルスの感染拡大などもあって、展示リニューアルがだいぶ遅れてしまいましたが、6月20日にようやく開館いたしました。ご支援・ご協力いただいたすべての方々に深く感謝します。感染防止のため、事前予約制、入館者数の制限などの措置を取らざるをえませんが、28日までの間にすでに130数名の方が来館されています。アンケート結果を見てみますと、展示がすっきりしていてわかりやすいという評価が多く、館長としては、ほっと胸をなでおろしている次第です。また、「当センターをどうやって知りましたか?」との質問に対しては、センターのホームページ、新聞やテレビと回答された方が多かったのにも驚かされました。この間の広報活動の成果が出ていると感じましたが、今後も様々な媒体を通じて積極的に発信していく努力が重要でしょう。スマホなどとは無縁の時代遅れの館長ですが、せめて講演などの際にはセンター、センターと連呼するつもりです。(館長 吉田 裕) <リニューアル開館します 名誉館長 早乙女勝元> 戦後75年の夏が迫って参りました。皆様には、いかがお過ごしでしょうか。 いわゆる「三密」の不安で不自由な日々ですが、今日はいいお知らせです。  当センターは博物館相当施設をめざしてリニューアル中でしたが、建物から、展示へと作業を終えて、ようやく皆様をお迎えできるようになりました。若い研究者たちの努力によって、わかりやすく新しい展示表現へと、資金その他のきびしい条件下にもかかわらず、完成したものです。東京大空襲惨禍の引継ぎは決して充分ではないものの、なんとか達成できましたことを心から喜びたいと思います。  しかしながら、今度はコロナ禍という新たな大試練が目の前に登場しました。私たちの生活は非日常に変えられてしまい、終息はいつのことやら。当センターも無関係ではいられません。日本の民主主義と平和の、重大な危機でもあります。この日この時、このヤマを無事に乗りきって、後世代に命のバトンを手渡すべく、皆様のご来館を切に期待する次第です。

館長ごあいさつ
(戦災資料センター・ニュースNo.36より) 少し時期遅れになるかもしれませんが、明けましておめでとうございます。多くの方々に励まされ支えられながら、東京大空襲・戦災資料センターも新しい年を迎えることができました。改めて感謝申し上げます。本年は展示リニューアルの完成というセンターにとって大きな節目の年となります。今まで以上のご支援をどうぞよろしくお願いいたします。お正月に片渕須直監督の「この世界の片隅に」を、娘と一緒に(ここが重要)見てきました。呉軍港を舞台にして、人々の日々の生活の営みの中から戦争の残酷さ、不条理さを描いたみずみずしい作品です。さりげなくではありますが、植民地支配や軍隊と性の問題を取り上げていますし、呉空襲や原爆のシーンも迫力があります。特に原爆の爆風のすさまじさが強く印象に残りました。映画を見終えてふと考えたことは、原作者のこうの史代さんに東京大空襲の漫画を描いてもらえないかということでした。こうのさんは『夕凪の街 桜の国』以来、私の好きな漫画家の一人ですが、そのこうのさんに直接お会いして、東京大空襲の漫画をお願いする。これが私の「初夢」です。