戦災資料センターニュースNo.36号より転載

―大人世代- ★ニューヨークから来ました。2016年に引き続き2回目となります。前回はイラク戦争とアフガン戦争に行かされた元芸軍兵士と来ました。今回はベトナム戦争中に海軍の看護師だった女性の元米軍人と来ました。どうしてもここに来たかったそうです。私自身もここの意義をもっと日本の外の人々に知ってもらいたいと思います。日本にある米軍基地で働く人々はみなここを訪れるべきだと思います。また、当時の日本に植民地から連れてこられた人々が、ここで沢山殺された事実も、国の内外の人々に知ってもらいたいと思います。Rさん(海外在住) ★終戦の時、私は小学校5年生でした。3月の大空襲のあと。20歳位の奇麗なお姉さんが大やけどをして、お兄さんの家に逃げてこられました。終戦になってから何十年、私が70歳を過ぎてから、その仲よしの子とやけどをしたお姉さんの話をしました。両手をやけどで使えなくなったあのお姉さんのトイレのあと「家のお母ちゃんがお尻を拭いていたって」と聞きました。毎日毎日お尻を拭いてもらわなければならなかったあのきれいなお姉さんのこと、思い出しました。一番辛い話は60年位たって、やっと話せるものなのだと思いました。 無記名 ★府中の従兄宅に縁故疎開をしていた、当時、江東区明治小学校6年生の母は、爆撃が小休止している間に卒業式を行う、という学校からの通達で、深川清澄の自宅に戻ってきた。その日1945年3月9日の夜半にサイレンが鳴りひびき、炎の海を両親と逃げた。あの日のことの記憶は、「とにかく強い風が“ごうごう”と吹き、寒くてガタガタとふるえた」ことだそうだ。翌日、母の身を案じた年上の従兄が府中から自転車で迎えにきてくれ、一緒に府中へ戻ったとのこと。その母は今年88歳を迎える。毎日口ゲンカするほど元気で口も達者だ。そのことをとてもありがたく思う。あの日炎に焼かれ、あるいは窒息し、水におぼれ、無念のうちに命を落とした10万の人びとがいたことを私たちは永遠に忘れてはならない。本日、ここに来て改めて感じた。Yさん   ★子どもの時に早乙女さんの「猫は生きている」を読んで以来、空襲の悲惨さ、戦争の愚かしさを忘れてはいけないと思い続けています。どうしたら世界から戦争がなくなるのか。とにかく、語りつないでいくしかないと思います。難しい時代ですが、ここは貴重な場です。これからも活動を続けてください。私も子どもたちに戦争の悲惨さを伝えていきます。Tさん(名古屋市在住)

―若い世代- ◆ぼくはこの博物館に来て、あらためて、せんそうは、ぜったいにやってはいけないと思いました。なぜかというと、せんそうのためにうそや、びんぼうな生活をしなければいけないからです。でも、それより、もっともっと大切な事があります。それは「命」です。ぼくは、これからもっと「命」を大切にして生きていきたいです。小学校4年 戦争を経験していない僕でも戦争は絶対無い方がいいと思う。何か敵対する事情があっても戦争以外に方法はあると思うし、戦争でなければ死者は出ずに済むと思う。これからの日本、これからの世界が戦争を生まないことを願う。やっぱり対話が一番いいと思う。 中学校2年 ぼくは戦争のちしきはぜんぜんありませんが、ぼくの家には神社があります。その神社にぼうくうごうがあります。そこは、とてもくらく、ぼくはそんなところは、死んでもはいりたくありません。けど昔の人は、へいきで入るからすごいとおもいました。これからも戦争がない、いい日本になったらいいなと思います。小学6年 この資料センターをおとずれて、あらためて戦争の怖さを知りました。世界の人々が平和への一歩ふみだせると良いと思いました。社会の授業で行う戦争の話よりもここの資料センターのほうがとてもこまかく戦争にふれていてとても分かりやすく、勉強になりました。また、ここをおとずれたいと思います。中学校2年

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