2020年07月25日掲載 戦災資料センターニュースNo.37号より転載

―大人世代-★3月10日浅草吉原で焼け出され、母と妹が亡くなった。小学生だった私、何年も言問橋を渡れなかった。多分母と妹がその近辺で亡くなったのだと思う。今は亡き弟が浮浪児になりそうになった時、父と上野で会う事が出来た。母を探しに歩いていた父が・・・うれしかった。子供、孫にも伝えている。(Yさん 84歳)★昭和20年当時、私は深川に住んで居りました。(15歳)家の近くにも爆弾が投下され焼夷弾による火災が頻繁にに起こるようになりました。雪の降る2月の或る夜、空襲警報のサイレンの音で飛び起きた父は突然心臓発作で倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。その悲しみが消えない約半月後、あの3月10日の未明不気味なサイレンで起こされ、防空壕に避難した私達家族は外の騒がしさに気付くと隅田川方向から深川の方へ一面に火が迫って来ていたのです。壕に居たら焼死すると思い、家に戻り真新しい父の位牌と大事なものだけを背負い、小名木川方面に逃げましたが、風が強く火は足元をはってきます。しかも上空から焼夷弾攻撃で真昼のように明るく、そして熱く恐怖でいっぱいでした。私達が通った元加賀小学校の講堂に逃げ込もうとしましたが、先に逃げた人達で一杯で入れません。火は益々はげしく、足元を襲います。焼け落とした川の中のいかだの上にも人が一杯でした。引き返した学校近くの古井戸から水を汲み、防空頭巾の上から水を被り、飛んで来る火の粉を防いで居りました。夜が明ける頃には一面焼け野原でしたが、私達は助かったのです。が途中で大事な、大事な、大事な父の位牌を落としてしまったのです。父の位牌が私達家族の犠牲になってくれたのでしょうか。一面の焼け野原の中で、悲惨な焼死体が目を覆いたくなる程多く、生き地獄とはこの様な事ではないかと思われました。私にとって生涯忘れる事は出来ません。(Iさん 89歳)

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