東京大空襲とその被害

 まず、東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。

初期の空襲

 アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。
 それ以降約2年半の間、東京の区部への空襲はありませんでしたが、小笠原には1944年6月15日に空襲があり、民間人にも機銃掃射による被害が出ています。
 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まりました。1945年3月10日より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であり、高高度から、多くは昼間に爆撃しています。東京の場合、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われましたが、その爆撃ができない時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃しています。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲されました。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲しています。11月29日から30日にかけては市街地への夜間の集束油脂焼夷弾を使った空襲がすでになされています。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲され、530人あまりが亡くなっています。2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、119機のB29が市街地を爆撃し、区部で160人以上が死亡しています。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないことがわかり、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えて172機のB29が空襲しました。この日の空襲は、目標地域が3月10日の下町大空襲と同じ最も燃えやすい住宅密集地であり、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となり、195人が亡くなっています。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、650人あまりが死亡しています。1944年11月から1945年3月4日までの空襲により、区部で2000人以上が亡くなっています。

1945年3月10日の下町大空襲

 画期になったのは1945年3月10日の下町大空襲です。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
 3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

後期の大空襲

 4月、5月の山の手大空襲は、爆撃の規模や焼失面積は3月10日の大空襲を上回るものであり、山の手の大空襲やその他の空襲を含めて後期の東京空襲で約8000人が亡くなりました。規模の割に死者が少ないのは、逃げやすい地形であったこともありますが、3月10日の惨状を見て、人員疎開が進んだこと、消火をしないですぐ逃げるようになったことも影響しています。
 4月13~14日の城北大空襲について、アメリカ軍は王子区の陸軍兵器工場をねらったとしていますが、実際はそれより南の豊島区、滝野川区、荒川区などの住宅地が焼かれました。328機のB29が2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約17万戸、罹災者約64万人で、死者は警視庁の調べでは2450人、東京都の調べでは1661人になります。
 4月15日の大空襲では蒲田区などの東京南部から川崎にかけての工場地帯と住宅地が空襲されました。東京には、109機のB29が754トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下しました。蒲田区はほとんど全域が焼かれました。この日の東京の被害は、罹災家屋約5万戸、罹災者約21万人で、死者は警視庁の調べでは841人、東京都の調べでは903人になりました。
 5月24日の大空襲では、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲されました。この日の空襲では、520機のB29が3646トンの焼夷弾を投下しており、来襲したB29の機数、焼夷弾の投下トン数とも最大です。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは762人、東京都の調べでは530人でした。
 5月25~26日の大空襲では、24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲されました。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失しました。この地域の空襲では、高層のコンクリートの建物もあるため、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も使われました。464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは3242人、東京都の調べでは3352人です。
 4月1~2、4日、6月10日、8月8、10日など、4月以降8月まで航空機工場などの軍需工場や飛行場に対する爆撃が続き、周辺の住宅地も被害を受けました。5月29日には、昼間の横浜大空襲の余波で、東京の南部でも被害が出ています。原爆の模擬爆弾が、7月20日には東京駅八重洲口近くの堀に、7月29日には多摩の保谷に、それぞれ投下され、被害が出ています。また、人の殺傷を狙った機銃掃射もなされました。

三多摩地域・島嶼部の空襲

 東京の三多摩地域への空襲は40回ぐらいです。武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所や立川市などの航空機関係の工場や飛行場に対する爆撃が、1944年11月から1945年8月まで続きました。8月2日に八王子の市街地が焼き払われ、8月5日には中央線列車への機銃掃射により大きな被害を受けています。40回の空襲のうち30日間に、約1500人の民間人の死者が出ています。
 伊豆諸島・小笠原では、32回の空襲があり、民間人48人が死亡しています。

空襲後

 3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。その数は3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人であり、そのうち約8000人のみは名前がわかり個別に埋葬されましたが、それ以外は合葬されました。仮埋葬された遺体は3~5年後に掘り返されて、火葬されました。遺骨は東京都慰霊堂に安置されました。その後も、遺族などに引き取られる遺骨は少なく、今でも、約8万人の遺骨が残されています。別に焼け跡で現場火葬も行われました。
 戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がなされました。東京都独自の見舞金も支給されました。しかし、戦後、軍人・軍属とともに民間人への特別の措置が廃止されました。講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活しましたが、民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままです。ただし、日本人の、勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属に位置づけられ、最初は、軍人・軍属と格差はありましたが、今は同じような援護を受けています。