母子像東京大空襲・戦災資料センター
災害研究室だより題字

戦争災害研究室だより 第4号(2006年9月22日発行)
東京大空襲・戦災資料センター
〒136-0073 東京都江東区北砂1-5-4
財団法人政治経済研究所内
tel 03-5857-5631 fax 03-5683-3326
HP http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/

第4回研究会報告

日時 2006年9月4日(月)14:00〜18:00
場所 東京大空襲・戦災資料センター
報告題 1970年代における空襲・戦災記録運動の展開
     「東京空襲を記録する会」を中心に
報告者 鬼嶋淳
出席者 青木哲夫 植野真澄 大岡聡 鬼嶋淳 土岐島雄 福島在行 山辺昌彦 山本唯人 吉田裕(50音順)

はじめに

◇問題関心

◇課題

[1]「東京空襲を記録する会」の運動について、経過を明らかにする

当該期の早乙女、松浦が執筆した文章/早乙女勝元・土岐島雄・橋本代志子からの聞き取り調査

[2]「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」について1970年代の活動経過を明らかにする

横浜開港資料館に所蔵されている「今井清一文庫」の調査

[3]それらをふまえて、「空襲・戦災を記録する運動」を歴史的に分析する意義や今後の分析視角について考える

I.「東京空襲を記録する会」について

(1)会のはじまり

◇松浦総三が「書かれざる東京大空襲」を執筆するため、早乙女勝元を訪問

*東京空襲に関する事実を正確に、「総合的」「科学的」に知りたい/知る必要があるという意識→『戦災誌』の編集方針に大きな影響

◇早乙女の作家としての問題

◇様々な「出会い」

*サークルで空襲・戦災の記録集を出す。たとえば草の実会/教職員組合が父母の体験記をまとめる予定

   →サークルや教職員がもっていた意味の重要性

   →たとえば、記録する会の中心となる主婦であった橋本は、草の実会とPTAでの教師からの「啓蒙」が「地域を見渡す目と考える元になった」と記録する会への加わる前の重要な経験として語っている*4

◇「美濃部亮吉東京都知事へのお願い」1970.8.5 →会の発足

*「信頼できる正史として完全な記録」/「正確な東京空襲史資料」

*「市民らの空襲体験」と「軍と官庁資料」「アメリカ側の資料」による

*監修者に「中正にして権威ある学者」
  →「市民運動」的側面は薄いという早乙女の評価*5

(2)『東京大空襲・戦災誌』の刊行*6

◇「記録する会」の目的→『東京大空襲・戦災誌』全5巻の刊行

◇編集方針:

「庶民の立場からみた戦災誌」/大空襲を体験した都民自身に、その炎と恐怖の体験を語り・綴ってもらうこと、特に最も戦争のなかで弱い立場にあった女性や老人、子どもなどの「声なき声」の記録を収集すること

◇体験談収集の過程について

*71年8月15日までには、3月10日空襲が420通、6000枚、その他の空襲が460通、5000枚集まる

*執筆者の半分以上が女性で東京在住者以外

*談話筆記が53編/佐藤寿美子の協力

◇「東京空襲戦災体験記の募集の概要」*7

◇第1・2巻編集方針

*町ごとに記録を配列することで、「その夜のあの場所、この橋の状況は、期せずして再現される資料」となった

*執筆者は、40〜50歳までが圧倒的で、過半数は女性/「銃後」の民衆、とりわけ女性の受けた苦難

○当時に提出された問題点

[1]体験記のもつ資料的意味への疑問/時間の経過とともに信憑性に乏しいのでは?

   →戦災状況の再現は、複数形の人びとの目からとらえられた「事実」

[2]書き手の戦争責任/焼夷弾の下を逃げ回った人びとも直前までは隣組や警防団に率先して協力し、戦争に消極的な人びとを非国民呼ばわりしてきたことへの批判

   →民衆の「戦争責任の問題は決して単純なものではない」。これらの議論の深まりは、「炎の夜」をくぐりぬけ、一命をとりとめた人びとの「その後もどれほど苦難に満ちた道を汲み取ってこそ、真に実りあるものになろう」。

[3]空襲・戦災の体験を語りたがらなかった人びとの問題/「経済の高度成長が謳歌され『炎の夜』が遠ざかるにつれて、あの空襲を経験した人びとの思いは、次第に孤立無援になり、いよいよ深く重く、一人一人の胸の底に沈みこんでいったのではなかったろうか」

◇3巻の編集方針

   →1・2巻で記録された都民個々の空襲体験・戦災被害を東京空襲の総体のなかで位置づける

◇4巻

◇5巻

(3)東京都における空襲記念館構想について

経過:年表

*「東京大空襲と戦災の体験記・記録をおよせください!」という呼びかけビラには、日記、写真、スケッチなどもともに募集しているが、初めから資料館構想はあったわけではない

II.「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」について

(1)各大会の特徴

◇大都市から地方都市へ

◇記録集刊行後の運動について

(2)各都市の特徴

*どのように空襲を記録して、伝承するのか/各地で70年代に考えられている

*全国連絡会議における資料からは東京は、記録集刊行後運動が停滞/もちろん、地域では個別に運動が蓄積されていただろう。たとえば、10回大会のテニアン島に「鎮魂不戦之碑」建立

論点と課題

○空襲・戦災を記録する運動の米軍資料と体験談

*記録運動を展開したことで、数多くの体験談・米軍資料を収集したことの意味は大きい。

*ただ、体験談についてこうした視点をその後どれほどもっていたのか?

   →空襲研究が米軍資料中心に/記録の再読が課題である

○空襲・戦災を記録することの意味/戦争認識の問題との関連

○空襲・戦災を記録する運動と教育の問題

○1950年代と1970年代の差異と共通性

*差異

*共通性

○1970年代に盛り上がりを見せた意味について →いまだ課題

○1980年代以降との関連について課題

○戦災記念館構想について/今回は事実確認

※資料は巻末

表1…東京空襲を記録する会関係仮年表
表2…空襲・戦災を記録する会全国連絡会議関係年表

(注)

1…「東京空襲を記録する会」に関わっている土岐島雄も、1981年の『日本の空襲』の刊行をもって第1期が終了したと述べている(「土岐島雄氏聞き取り」2006.2.22.)
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2…「早乙女勝元氏聞き取り」2005.12.4.
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3…同上
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4…「橋本代志子氏聞き取り」2006.7.19.
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5…前掲、「早乙女勝元氏聞き取り」
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6…以下、特に注記がないときは、『戦災誌』より。
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7…「東京空襲・戦災誌両編集の綱要と姿勢をつぎのように考えております」昭和46年4月10日、東京空襲を記録する会編集委員会 代表有馬頼義、事務局長松浦総三
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8…前掲、「早乙女勝元氏聞き取り」
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討論概要

資料について

大岡聡 今井清一文庫の整理はどうなっているのか。公開されているのか。

鬼嶋淳 資料は文書封筒に入って整理されているが、完全な目録はできていない。資料群が2つあって、1つの全国連絡会議の資料は密度は違うが、回毎に整理されている。大会で集めた各地の空襲を記録する会の会報や資料もある。横浜空襲を記録する会の資料は内部の詳しい資料がある。だぶりの資料を東京大空襲・戦災資料センターに寄贈してくれるということである。「今井文庫」の資料を閲覧した人はいるが、一般公開しているかどうかはわからない。

吉田裕 アメリカ押収文書の返還・公開を要求する会は、藤原彰さんなど歴史学研究会中心に広い歴史研究者が集まって創った会で、『歴史学研究』などに記録がある。

補償運動について

吉田裕 戦災障害者に対する援護法の問題で、国会で取り次いでいるのは、民社党議員で、ここでは、総力戦のもとで国民が勇敢に戦争に協力し、その結果の被害だから、補償を求めるという論理で言われている。

山本唯人 70年代に「東京都戦災遺族会」を作り、援護法制定に関わっていた故・溝口松治氏の資料によると、当初の団体名は「都防空法犠牲者の会」となっていて、住民に対して様々な義務を課した防空法への協力の結果、被った犠牲に対して補償を求めるという論理が出ている。ただし、その後自民党から示された、慰霊事業に補助金を支給する、その代わり国家補償の要求は取り下げるという選択肢への対応を巡って運動は分裂したようだ。ここで、自民党系についたグループは、社団法人戦災遺族会をつくり、今でも国から補助金をもらって各地の追悼事業や資料作成などをおこなっている。これに反対し、あくまで補償を求めるグループは、社会党を国会での窓口に戦時災害援護法制定運動へと流れていった。80年代半ばまでで議事録や会計報告などの資料はとまっている。「東京都戦災遺族会」の活動については、資料が残っていて、手元に複写もあるので、いずれまとまったかたちで経過をまとめたい。ちなみに、2000年3月に結成された「東京空襲犠牲者遺族会」は、90年代後半から「氏名記録運動」の延長上に発展したもので、溝口氏たちのグループとは、別の組織である。

土岐島雄 第1回全国連絡会議の時に、浜松の坪井さんなど、自民党系の戦災遺族会の運動の流れをくむ人も来ていた。

平和記念館について

大岡聡 江戸東京博物館の展示と平和記念館をつくる運動との関係はどうなのか。

土岐島雄 江戸東京博物館はできることが決まってからは、どれだけ多く東京空襲を展示するかということが問題だった。博物館展示の設計の丹青社から言われて、東京空襲を記録する会が協力し、展示案や展示資料の提供、体験証言者の紹介などをした。

青木哲夫 鈴木都知事の時、平和の日も制定されたし、東京都平和記念館の最初の構想もできた。大規模なものをつくるというのが流れた。その次に青島知事の時に、建設委員会が出来て、佐々木隆爾さんや青木さんが入って協力したが、最後に凍結された。東京都平和記念館の構想と江戸東京博物館の建設は並行していた。

教員の関わりについて

福島在行 空襲を記録する運動に教員はどうかかわっていたのか。京都の戦争展の場合は1980年に始まったが、1970年代後半の教員による、戦争体験を聞き取ったり、地域の戦争を明らかにするような戦争教育や、日本国憲法を守る主権者を育てる平和教育を引き継ぐものになっている。

鬼嶋淳 空襲を記録する運動が起きた1970年代前半には、特に東京空襲を記録する会に関して言えば、そういう運動との関わりは見えない。会のまわりには、教員や教職員組合がいて、どのように東京空襲を教えるかなどを議論していたが、記録する会の中心にはいなし、両者を関連させた運動はない。東京の場合は、本を出版することが中心になっていた。

土岐島雄 東京空襲を記録する会は事務局で手記を集めて、編集することが運動の中心だった。朝日新聞とNHKが応援してくれて、手記が集まり、積極的に取りに行ったわけではない。教職員組合への呼びかけもしなかった。『暮らしの手帖』が参考になった。墨田・江東など、地域の3月10日関連の運動には教員がかかわっている。

加害について

吉田裕 創価学会の反戦青年委員会の記録活動は同じ時期だが、女性の記録があまりなく、従軍兵士のなまなましい加害の記録が多い。1971年には本多勝一の中国の旅が書かれている。日中国交回復や沖縄返還問題があって、1970年代前半から加害の自覚や取組が始まっている。教員の戦争責任も追及されている。このころ学徒出陣した世代がベテラン教員としてリードしていた。

福島在行 空襲を記録する運動で加害の問題はどう出てくるのか。

鬼嶋淳 東京の場合はあまり議論が出てこない。早乙女さんはすぐに加害の問題としてベトナムのことに取り組むようになる。ほかの地域もわからないが、『日本の空襲』第10巻の座談会では、黒羽さんが被害と加害の重層性などの発言をしているし、大阪の小山仁示さんや横浜の今井さんも議論をしている。

山辺昌彦 在日の人の問題は課題にしていたと言うが、実際の取組はどうだったか。

鬼嶋淳 意図的には在日の人の手記を集めていない。

土岐島雄 松浦総三さんは石川島の軍需工場で朝鮮人が働かされていたことを見ていたので、特に取り上げようと言っていた。

山本唯人 朝鮮人関係の内務省史料などを収集し、『東京大空襲・戦災誌』に収録している。記録する「主体」をどのように名指すかという問題と関わる。『戦災誌』のなかは、「庶民」「都民」「市民」などの言葉が混在して、明確に整理されていないという印象。こうした「揺れ」の部分に注目すべきではないか。中心にマスコミ関係者がいて、メディアの運動として捉えられる部分がかなりあるように思う。不特定多数の人々に、戦争体験を伝える新しい「方法論」を作り出した反面、国民の間に亀裂をもたらすような補償問題や在日の問題が周辺化されてしまうという負の効果もあったのではないか。

メディアについて

吉田裕 この時期はメディアがまだ頑張っていて、報道する側も戦争体験があって、こういう問題を一番積極的に取り上げていた時期だった。早くから新聞社は手記を募集し集めて、出版していた。1965年に『週刊朝日』が「父の歴史」を募集している。たくさん応募があったが、掲載されたのは20〜30ぐらいである。その点『東京大空襲・戦災誌』は集めた手記を選ばないでみんな載せていることと、女性が書いていることが画期的である。

鬼嶋淳 『世界』には1955年から戦争体験記を募集して載せている。

山本唯人  『戦災誌』の編纂を通じて、体験者どうしが互いの体験を交流させたことは大きいと思う。90年代の氏名記録運動に関わるメンバーのうち、かなりの数の人々が、『戦災誌』への投稿体験を持っていて、70年代の活動を90年代に「つなぐ」役割をしたという位置づけはできると思う。

土岐島雄 『東京大空襲・戦災誌』は体験記執筆者に原稿料のようなお金を払っている。

記録する会の社会運動的性格について

山辺昌彦 大阪は民間でやると強調していたそうだが、大阪府平和祈念戦争資料室ができるなど、大阪の方が自治体との関係が強いように思うがどうなのか。

鬼嶋淳 初期に全国連絡会議に参加したグループは自分たちを民間と位置づけている。その後、会議に別のグループも参加しており、別の運動も起きていると思う。

山本唯人 大阪は大阪府平和祈念戦争資料室ができて、多様な運動がそこに集まった。東京では、そういう拠点が生まれなかったために、時間と共に運動が細分化していく。

山辺昌彦 横浜が全国の運動を支えてきたが、地域でどういう運動をしてきたのか。

鬼嶋淳 横浜は主婦と教育者と研究者と若者などが一体となって取り組んできたと言っている。資料館・図書館をつくる運動があって、今井さんなどが戦時期の本を出している。

青木哲夫 今の「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」は講演会や見学会などの日常活動をやっているが、東京空襲を記録する会は日常的な運動の取組はなかったのではないか。

福島在行 体験記を語る時に、追悼と慰霊の意味を込めているのか。

鬼嶋淳 東京の場合はわからないが、橋本さんのように記念碑を建てる運動をしていく人はいる。

植野真澄 体験記はつくる立場からするとすごく大変だと思う。

(文責・山辺昌彦)

今後の予定

第5回研究会

日時:10月9日(月・祝日) 14:0018:00
報告題:伊香俊哉氏「戦略爆撃から原爆へ」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争 5』2006年)評
報告者:青木哲夫

※伊香俊哉氏のリプライもあります。
※HPを見て参加される方は、資料センターまで事前にご連絡を下さい。

本論文は、著書『近代日本と戦争違法化体制』(2002年)において、戦争史に新機軸を開いた伊香氏が戦略爆撃(とその一形態である原爆投下)について、戦時国際法上の規制の変化、軍事目標主義から無差別爆撃への移行、それを可能とした各種の要因について検討したものである。ドゥーエ理論の実際といった問題にも及んでおり、おおいに学ばされた。報告で取り上げたい論点は、現在のところ、次のようなことである。[1]戦時国際法の評価について、[2]軍事目標主義(とりわけ「精密爆撃」)の問題、[3]ドゥーエ理論と日本の防空論、[4]現代の空襲・空爆。