第4回研究会報告
日時 2006年9月4日(月)14:00〜18:00
場所 東京大空襲・戦災資料センター
報告題 1970年代における空襲・戦災記録運動の展開
「東京空襲を記録する会」を中心に
報告者 鬼嶋淳
出席者 青木哲夫 植野真澄 大岡聡 鬼嶋淳 土岐島雄 福島在行 山辺昌彦 山本唯人 吉田裕(50音順)
はじめに
◇問題関心
- 現在「空襲・戦災を記録する運動」は、空襲研究の動向のなかで、あるいは、各地の会の経過をたどるかたちで、主に当事者によってまとめられている。
- 1970年代に「東京空襲を記録する会」(以下、記録する会)の運動から全国的に空襲・戦災を記録する運動が盛り上がりをみせたことの意味。
- 「記録する運動」に参加した人びと、体験談を書いた人びとにとっての意味。
- そのための前提として、今報告では、1970年代の「記録する会」と「空襲・戦災を記録する会・全国連絡会議」(以下、全国連絡会議)の運動経過を当時の文献を中心にして明らかにする。さらに、両者の関連についても考えたい。
- 1970年代に限定した理由は、1981年には、『日本の空襲』が完結されて、全国連絡会議でも空襲・戦災を記録する運動の10年間のまとめと見ているためである*1。さらに、80年以降の様々な運動が展開し、「記録運動」では括れないためである。
◇課題
[1]「東京空襲を記録する会」の運動について、経過を明らかにする
当該期の早乙女、松浦が執筆した文章/早乙女勝元・土岐島雄・橋本代志子からの聞き取り調査
[2]「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」について1970年代の活動経過を明らかにする
横浜開港資料館に所蔵されている「今井清一文庫」の調査
[3]それらをふまえて、「空襲・戦災を記録する運動」を歴史的に分析する意義や今後の分析視角について考える
I.「東京空襲を記録する会」について
(1)会のはじまり
◇松浦総三が「書かれざる東京大空襲」を執筆するため、早乙女勝元を訪問
- 早乙女は、東京空襲に関する小説を書いており、庶民の側の資料はもっていたが、B29の来襲機の数などを知り驚く*2
*東京空襲に関する事実を正確に、「総合的」「科学的」に知りたい/知る必要があるという意識→『戦災誌』の編集方針に大きな影響
◇早乙女の作家としての問題
- 生活記録から作家となったが、25歳で失業した後、ストーリーに真実味が無くなっていた。もう一度事実にもどろうといった時期であったこと*3
◇様々な「出会い」
- 松浦/家永三郎/有馬頼義/橋本代志子(体験談を聞いたものの責任)/石上正夫(教員のなかでも体験記)
*サークルで空襲・戦災の記録集を出す。たとえば草の実会/教職員組合が父母の体験記をまとめる予定
→サークルや教職員がもっていた意味の重要性
→たとえば、記録する会の中心となる主婦であった橋本は、草の実会とPTAでの教師からの「啓蒙」が「地域を見渡す目と考える元になった」と記録する会への加わる前の重要な経験として語っている*4。
◇「美濃部亮吉東京都知事へのお願い」1970.8.5 →会の発足
*「信頼できる正史として完全な記録」/「正確な東京空襲史資料」
*「市民らの空襲体験」と「軍と官庁資料」「アメリカ側の資料」による
*監修者に「中正にして権威ある学者」
→「市民運動」的側面は薄いという早乙女の評価*5
(2)『東京大空襲・戦災誌』の刊行*6
◇「記録する会」の目的→『東京大空襲・戦災誌』全5巻の刊行
◇編集方針:
「庶民の立場からみた戦災誌」/大空襲を体験した都民自身に、その炎と恐怖の体験を語り・綴ってもらうこと、特に最も戦争のなかで弱い立場にあった女性や老人、子どもなどの「声なき声」の記録を収集すること
◇体験談収集の過程について
- 「「記録する会」の結成が報道されただけで、多くの問い合わせがあり、戦災体験記第1号も8月早々に寄せられてきた」→編集委員会の結成・体験記募集方針・正式な呼びかけは都民の声に突き上げられたかたち
- 編集委員や委員はマスコミで宣伝/記念講演会などで直接都民に体験記の執筆を呼びかけ/発展したのは「マスコミの力」
*71年8月15日までには、3月10日空襲が420通、6000枚、その他の空襲が460通、5000枚集まる
*執筆者の半分以上が女性で東京在住者以外
*談話筆記が53編/佐藤寿美子の協力
◇「東京空襲戦災体験記の募集の概要」*7
- マスコミにおける「東京空襲ブーム」/体験記募集のため広告はしない/編集委員が各自でやる
- 「都民に対する執筆要請のポイントは、[1]空襲下の日常生活・職場・衣食住、[2]戦災の日のこと、[3]どう逃げたか、[4]敗戦の日まで、[5]戦災の後遺症、体験記述の中心は[2]」
- 地方紙支局長、社会部長にリーフレットを送り体験記募集の依頼
- 地方文芸講演会を地方文化団体やサークルなどとタイアップして開催して、体験記の応募をよびかける
- 子どもに戦争をどう教えるかを考えている人びとの協力をあおぐ。日教組、草の実会、母親団体など
- 体験記の書かれた時期の問題について編集委員会で討論/「資料編集は「集めるものであって書かせるものではない」ともいえる。しかし、戦中から敗戦直後執筆できなかった多くの都民たちにも執筆してもらうことはきわめて重要である。本資料が「庶民の立場」にたったものである以上、可能な限り多数の都民の文章をあつめたものでなければならぬ。つまり「書かせる運動」「戦災を忘れない運動」があってはじめて「都民の立場」にたったということもできる。この点は、1月9日の編集委員会で論争された。」
- 体験記は、日別、地域別に配列→戦災状況を何人もの証言によって再現
- 5巻の空襲下の都民生活では、空襲対策による生活の変化のなかに、「疎開、戦災孤児、学徒動員、徴用、朝鮮人の記録」生活記録、マスコミ、ミニコミ
◇第1・2巻編集方針
- 1巻、2巻は都民自身が書いた戦災体験記で構成する
- 1巻:3月10日、2巻:その他
- [1]原則として全部採用[2]1巻あたり4000枚[3]一人あたり30枚
- 削除、整理方針:[1]空襲に直接関係ない部分、[2]明らかな誤記、[3]「編集委員が印刷するに値いしないと認めたもの」
- 体験記とは、[1]個人の空襲に対する「怨念の記録」[2]空襲下を表現する「貴重な資料的要素」であり、ほかの体験者にとっては戦災体験の連帯と対話を生む資料
*町ごとに記録を配列することで、「その夜のあの場所、この橋の状況は、期せずして再現される資料」となった
*執筆者は、40〜50歳までが圧倒的で、過半数は女性/「銃後」の民衆、とりわけ女性の受けた苦難
○当時に提出された問題点
[1]体験記のもつ資料的意味への疑問/時間の経過とともに信憑性に乏しいのでは?
→戦災状況の再現は、複数形の人びとの目からとらえられた「事実」
[2]書き手の戦争責任/焼夷弾の下を逃げ回った人びとも直前までは隣組や警防団に率先して協力し、戦争に消極的な人びとを非国民呼ばわりしてきたことへの批判
→民衆の「戦争責任の問題は決して単純なものではない」。これらの議論の深まりは、「炎の夜」をくぐりぬけ、一命をとりとめた人びとの「その後もどれほど苦難に満ちた道を汲み取ってこそ、真に実りあるものになろう」。
[3]空襲・戦災の体験を語りたがらなかった人びとの問題/「経済の高度成長が謳歌され『炎の夜』が遠ざかるにつれて、あの空襲を経験した人びとの思いは、次第に孤立無援になり、いよいよ深く重く、一人一人の胸の底に沈みこんでいったのではなかったろうか」
◇3巻の編集方針
- 東京空襲の実態を日米両国の軍・政府の公式記録で明らかにすること
- [1]日本側の受けた全被害について公式資料[2]日本軍・政府の戦争指導方針と防空態勢についての公式資料[3]米国側の東京爆撃の戦略についての公式資料
→1・2巻で記録された都民個々の空襲体験・戦災被害を東京空襲の総体のなかで位置づける
◇4巻
- 報道記録/新聞・雑誌・知識人の日記
◇5巻
- 空襲下の都民生活に関する記録集
(3)東京都における空襲記念館構想について
経過:年表
- 1972:第2回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議で申し合わせ事項のなかに、自治体に「記念日の制定および資料館の設置を要請すること」
- 1973.8:第3回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議(名古屋)で、資料館構想がでる
- 1973年秋:記録する会では、空襲記念館をつくる運動をはじめる(松浦80)
- 1973.12.6:「東京空襲を記録する会」、「アメリカ押収資料の返還・公開を要求する会」、「空襲を記録する会全国連絡会議」の3団体が、美濃部東京都知事へ[1]アメリカ押収資料のマイクロ購入費の経済的援助[2]空襲・戦災資料を保存する資料館の建設を要求
→知事は[2]について、「東京都中央図書館内に、東京空襲を記録する会資料、全国空襲・戦災資料、アメリカから購入したフィルム資料を保存、公開する。そして将来は新宿区の副都心庁舎に、空襲・戦災資料館をもうける」ことを確約(仙台/「市民の手でつくる戦災を記録する会」会報No.4、1974.1.10) - 1974.4:「東京空襲・戦災記念館をつくる会」が発足/事務局長に松浦
- 資料の収集
- 「記録する会」収集資料を一括して保存、展示したい→東京都へ寄附しようとする
- 東京都は、空襲資料を一括して保存展示する意志なし
→戦災記念館をつくるよりほかない - 1976.4:「東京空襲・戦災記念館をつくる会」は収集し整理した一部の資料を東京都に5年間の期間で寄託 →東京都立江東図書館へ
- 1979:知事選挙の際、鈴木俊一候補と太田薫候補ら候補者に、公開質問状をだし、当選の暁には、東京空襲記念館をつくることに協力してくれるかを問う
→鈴木もその段階では、空襲・戦災記念館をつくることに協力するという書簡をよせる その後江戸博
*「東京大空襲と戦災の体験記・記録をおよせください!」という呼びかけビラには、日記、写真、スケッチなどもともに募集しているが、初めから資料館構想はあったわけではない
II.「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」について
(1)各大会の特徴
◇大都市から地方都市へ
- 1〜5回大会/大都市→記録集刊行について/各地域からの経過報告に時間をかける/記録集の刊行のための情報交換
- 6〜10回大会/地方都市へ→大半の都市で記録集が刊行される/各地の報告は文書提出/シンポジウムに時間
◇記録集刊行後の運動について
- 記録集刊行まで、運動の盛り上がり/参加都市の増加/第5回大会ピーク
- 一方で、記録集刊行後の運動のあり方が行き詰まり/第6回で「記録か実践かというジレンマ」/第7回で分科会方式「空襲記録と教育」「空襲記録の活動」/
- 第2回・3回から:資料館構想/アメリカ押収資料の公開運動/戦災者の実態調査/戦時災害援護法の立法化へ協力/教育との関連/空襲展
- 6回以降:教育との関連/「各都市の記録の集大成」として『日本の空襲と戦災』(仮)への取り組み/「戦災傷害者を忘れないでください」具体化せず/戦跡めぐりと一体に
(2)各都市の特徴
- 東京:1・2回は受け入れ/記録集の刊行まで/その後は松浦、早乙女が講演する/記念館構想もうまくいかず
- 名古屋:3回大会/今大会から、戦災傷害者に対する援護法立法化へのアピールの中心
- 横浜:4回大会/70年代通じて中心的な都市/普及版/今井清一・斉藤秀夫のまとめ
- 神戸:5回大会/資料室/慰霊碑建立
- 仙台:記念館構想
- 大阪:民間の運動を強調
- 福井:文化運動との連関
*どのように空襲を記録して、伝承するのか/各地で70年代に考えられている
*全国連絡会議における資料からは東京は、記録集刊行後運動が停滞/もちろん、地域では個別に運動が蓄積されていただろう。たとえば、10回大会のテニアン島に「鎮魂不戦之碑」建立
論点と課題
○空襲・戦災を記録する運動の米軍資料と体験談
- 「上(米軍の空襲)と下(庶民の戦災)」の両方が合わさって実態を解明できる*8
- はじまりは、空襲に関する事実が異なっていたことへの「驚き」/事実を明らかに/空襲の全体像を明らかにしたい→米軍資料へのこだわり
- ・体験談が持つ意味/当初「記録する会」の「東京空襲・戦災資料編集の綱要と姿勢」には、執筆のポイントとして「どう逃げたか」「戦災の後遺症」なども視野にいれ、また「朝鮮人問題」「戦災孤児」「学徒動員」「徴用」などもトピックにあげている/時間軸・階層性・同じ状況で空襲・戦災に遭ったわけではない/日時・場所ごとに配列→「複数形の人びとの目からとらえられた事実」
*記録運動を展開したことで、数多くの体験談・米軍資料を収集したことの意味は大きい。
*ただ、体験談についてこうした視点をその後どれほどもっていたのか?
→空襲研究が米軍資料中心に/記録の再読が課題である
○空襲・戦災を記録することの意味/戦争認識の問題との関連
- 「記録する会」の編集方針 →書くことを重視
- 人びとは書くことでどのような意味をもったのか。/当時も問題になった被害と加害の問題→ベトナム戦争を横目にみて加害を意識していたというが、空襲・戦災を記録することで、アジア・太平洋戦争での被害と同時に加害の問題も視野にならなかったのか?[今村修「覚書・「銃後」の戦争責任?空襲体験記録運動の中で」『思想の科学』1972.11]。
- 自らの戦後についての問い
- 記録する運動と同時期にあった、「全国戦災傷害者連絡会」の運動との関連
○空襲・戦災を記録する運動と教育の問題
- どのように戦争体験を教えるか/当然上記の問題(戦争認識の深化)が含まれただろう
→今後の検討課題(たとえば、東京江東社会科サークル「東京大空襲をどう教えたか」『歴史地理教育』193号1972.2など教育実践)
○1950年代と1970年代の差異と共通性
*差異
- 東京空襲を記録する会の運動は、『戦災誌』をつくる機運を盛り上げたという意味では、「マスコミ重視」や「ジャーナリズムの面」を強調する早乙女・土岐の指摘は説得的/50年代のサークル運動との差異
- 記録する運動の意味 /雑誌が体験談を募集するだけでなく、運動として展開することで、多くの人から体験談が集まる/50年代以降、雑誌による戦争体験の募集はある
*共通性
- しかし、会をとりまく状況をみると、70年代『戦災誌』刊行当時、サークルが大量に文集を作成/教育者との関係(どう教えるか)/刊行後も地域で地道な活動を行う橋本にみられるような、草の実会の経験/地域で運動を支える/サークルや教育者が記録する運動の継続に重要
- 女性が書き手として多いこと/「記録する会」の呼びかけ人、評議員などに女性は少ない。しかし、書き手の半数以上が女性であったことの意味
- 全国連絡会議でみると、各都市の活動はかなり小集団の運動といえるのではないか/アピールなどを読むと、社会情勢への批判が盛り込まれており、空襲・戦災を記録する運動は社会運動的側面があったといえるだろう。
○1970年代に盛り上がりを見せた意味について →いまだ課題
- 革新自治体論との関わり
- ベトナム戦争だけでなく、高度経済成長後、その負の側面
○1980年代以降との関連について課題
- 体験談を記録することに限定されない多様な運動
○戦災記念館構想について/今回は事実確認
※資料は巻末
表1…東京空襲を記録する会関係仮年表
表2…空襲・戦災を記録する会全国連絡会議関係年表
(注)
1…「東京空襲を記録する会」に関わっている土岐島雄も、1981年の『日本の空襲』の刊行をもって第1期が終了したと述べている(「土岐島雄氏聞き取り」2006.2.22.)
7…「東京空襲・戦災誌両編集の綱要と姿勢をつぎのように考えております」昭和46年4月10日、東京空襲を記録する会編集委員会 代表有馬頼義、事務局長松浦総三
討論概要
資料について
大岡聡 今井清一文庫の整理はどうなっているのか。公開されているのか。
鬼嶋淳 資料は文書封筒に入って整理されているが、完全な目録はできていない。資料群が2つあって、1つの全国連絡会議の資料は密度は違うが、回毎に整理されている。大会で集めた各地の空襲を記録する会の会報や資料もある。横浜空襲を記録する会の資料は内部の詳しい資料がある。だぶりの資料を東京大空襲・戦災資料センターに寄贈してくれるということである。「今井文庫」の資料を閲覧した人はいるが、一般公開しているかどうかはわからない。
吉田裕 アメリカ押収文書の返還・公開を要求する会は、藤原彰さんなど歴史学研究会中心に広い歴史研究者が集まって創った会で、『歴史学研究』などに記録がある。
補償運動について
吉田裕 戦災障害者に対する援護法の問題で、国会で取り次いでいるのは、民社党議員で、ここでは、総力戦のもとで国民が勇敢に戦争に協力し、その結果の被害だから、補償を求めるという論理で言われている。
山本唯人 70年代に「東京都戦災遺族会」を作り、援護法制定に関わっていた故・溝口松治氏の資料によると、当初の団体名は「都防空法犠牲者の会」となっていて、住民に対して様々な義務を課した防空法への協力の結果、被った犠牲に対して補償を求めるという論理が出ている。ただし、その後自民党から示された、慰霊事業に補助金を支給する、その代わり国家補償の要求は取り下げるという選択肢への対応を巡って運動は分裂したようだ。ここで、自民党系についたグループは、社団法人戦災遺族会をつくり、今でも国から補助金をもらって各地の追悼事業や資料作成などをおこなっている。これに反対し、あくまで補償を求めるグループは、社会党を国会での窓口に戦時災害援護法制定運動へと流れていった。80年代半ばまでで議事録や会計報告などの資料はとまっている。「東京都戦災遺族会」の活動については、資料が残っていて、手元に複写もあるので、いずれまとまったかたちで経過をまとめたい。ちなみに、2000年3月に結成された「東京空襲犠牲者遺族会」は、90年代後半から「氏名記録運動」の延長上に発展したもので、溝口氏たちのグループとは、別の組織である。
土岐島雄 第1回全国連絡会議の時に、浜松の坪井さんなど、自民党系の戦災遺族会の運動の流れをくむ人も来ていた。
平和記念館について
大岡聡 江戸東京博物館の展示と平和記念館をつくる運動との関係はどうなのか。
土岐島雄 江戸東京博物館はできることが決まってからは、どれだけ多く東京空襲を展示するかということが問題だった。博物館展示の設計の丹青社から言われて、東京空襲を記録する会が協力し、展示案や展示資料の提供、体験証言者の紹介などをした。
青木哲夫 鈴木都知事の時、平和の日も制定されたし、東京都平和記念館の最初の構想もできた。大規模なものをつくるというのが流れた。その次に青島知事の時に、建設委員会が出来て、佐々木隆爾さんや青木さんが入って協力したが、最後に凍結された。東京都平和記念館の構想と江戸東京博物館の建設は並行していた。
教員の関わりについて
福島在行 空襲を記録する運動に教員はどうかかわっていたのか。京都の戦争展の場合は1980年に始まったが、1970年代後半の教員による、戦争体験を聞き取ったり、地域の戦争を明らかにするような戦争教育や、日本国憲法を守る主権者を育てる平和教育を引き継ぐものになっている。
鬼嶋淳 空襲を記録する運動が起きた1970年代前半には、特に東京空襲を記録する会に関して言えば、そういう運動との関わりは見えない。会のまわりには、教員や教職員組合がいて、どのように東京空襲を教えるかなどを議論していたが、記録する会の中心にはいなし、両者を関連させた運動はない。東京の場合は、本を出版することが中心になっていた。
土岐島雄 東京空襲を記録する会は事務局で手記を集めて、編集することが運動の中心だった。朝日新聞とNHKが応援してくれて、手記が集まり、積極的に取りに行ったわけではない。教職員組合への呼びかけもしなかった。『暮らしの手帖』が参考になった。墨田・江東など、地域の3月10日関連の運動には教員がかかわっている。
加害について
吉田裕 創価学会の反戦青年委員会の記録活動は同じ時期だが、女性の記録があまりなく、従軍兵士のなまなましい加害の記録が多い。1971年には本多勝一の中国の旅が書かれている。日中国交回復や沖縄返還問題があって、1970年代前半から加害の自覚や取組が始まっている。教員の戦争責任も追及されている。このころ学徒出陣した世代がベテラン教員としてリードしていた。
福島在行 空襲を記録する運動で加害の問題はどう出てくるのか。
鬼嶋淳 東京の場合はあまり議論が出てこない。早乙女さんはすぐに加害の問題としてベトナムのことに取り組むようになる。ほかの地域もわからないが、『日本の空襲』第10巻の座談会では、黒羽さんが被害と加害の重層性などの発言をしているし、大阪の小山仁示さんや横浜の今井さんも議論をしている。
山辺昌彦 在日の人の問題は課題にしていたと言うが、実際の取組はどうだったか。
鬼嶋淳 意図的には在日の人の手記を集めていない。
土岐島雄 松浦総三さんは石川島の軍需工場で朝鮮人が働かされていたことを見ていたので、特に取り上げようと言っていた。
山本唯人 朝鮮人関係の内務省史料などを収集し、『東京大空襲・戦災誌』に収録している。記録する「主体」をどのように名指すかという問題と関わる。『戦災誌』のなかは、「庶民」「都民」「市民」などの言葉が混在して、明確に整理されていないという印象。こうした「揺れ」の部分に注目すべきではないか。中心にマスコミ関係者がいて、メディアの運動として捉えられる部分がかなりあるように思う。不特定多数の人々に、戦争体験を伝える新しい「方法論」を作り出した反面、国民の間に亀裂をもたらすような補償問題や在日の問題が周辺化されてしまうという負の効果もあったのではないか。
メディアについて
吉田裕 この時期はメディアがまだ頑張っていて、報道する側も戦争体験があって、こういう問題を一番積極的に取り上げていた時期だった。早くから新聞社は手記を募集し集めて、出版していた。1965年に『週刊朝日』が「父の歴史」を募集している。たくさん応募があったが、掲載されたのは20〜30ぐらいである。その点『東京大空襲・戦災誌』は集めた手記を選ばないでみんな載せていることと、女性が書いていることが画期的である。
鬼嶋淳 『世界』には1955年から戦争体験記を募集して載せている。
山本唯人 『戦災誌』の編纂を通じて、体験者どうしが互いの体験を交流させたことは大きいと思う。90年代の氏名記録運動に関わるメンバーのうち、かなりの数の人々が、『戦災誌』への投稿体験を持っていて、70年代の活動を90年代に「つなぐ」役割をしたという位置づけはできると思う。
土岐島雄 『東京大空襲・戦災誌』は体験記執筆者に原稿料のようなお金を払っている。
記録する会の社会運動的性格について
山辺昌彦 大阪は民間でやると強調していたそうだが、大阪府平和祈念戦争資料室ができるなど、大阪の方が自治体との関係が強いように思うがどうなのか。
鬼嶋淳 初期に全国連絡会議に参加したグループは自分たちを民間と位置づけている。その後、会議に別のグループも参加しており、別の運動も起きていると思う。
山本唯人 大阪は大阪府平和祈念戦争資料室ができて、多様な運動がそこに集まった。東京では、そういう拠点が生まれなかったために、時間と共に運動が細分化していく。
山辺昌彦 横浜が全国の運動を支えてきたが、地域でどういう運動をしてきたのか。
鬼嶋淳 横浜は主婦と教育者と研究者と若者などが一体となって取り組んできたと言っている。資料館・図書館をつくる運動があって、今井さんなどが戦時期の本を出している。
青木哲夫 今の「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」は講演会や見学会などの日常活動をやっているが、東京空襲を記録する会は日常的な運動の取組はなかったのではないか。
福島在行 体験記を語る時に、追悼と慰霊の意味を込めているのか。
鬼嶋淳 東京の場合はわからないが、橋本さんのように記念碑を建てる運動をしていく人はいる。
植野真澄 体験記はつくる立場からするとすごく大変だと思う。
(文責・山辺昌彦)
今後の予定
第5回研究会
日時:10月9日(月・祝日) 14:0018:00
報告題:伊香俊哉氏「戦略爆撃から原爆へ」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争 5』2006年)評
報告者:青木哲夫
※伊香俊哉氏のリプライもあります。
※HPを見て参加される方は、資料センターまで事前にご連絡を下さい。
本論文は、著書『近代日本と戦争違法化体制』(2002年)において、戦争史に新機軸を開いた伊香氏が戦略爆撃(とその一形態である原爆投下)について、戦時国際法上の規制の変化、軍事目標主義から無差別爆撃への移行、それを可能とした各種の要因について検討したものである。ドゥーエ理論の実際といった問題にも及んでおり、おおいに学ばされた。報告で取り上げたい論点は、現在のところ、次のようなことである。[1]戦時国際法の評価について、[2]軍事目標主義(とりわけ「精密爆撃」)の問題、[3]ドゥーエ理論と日本の防空論、[4]現代の空襲・空爆。