母子像東京大空襲・戦災資料センター

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表1 東京空襲を記録する会関係仮年表

年月日 事項 内容 出典
1967.6.14 『毎日新聞』に戦後22年ぶりに家族の遺骨が発掘された記事
1967.6.19 松浦が早乙女訪問/「書かれざる東京大空襲」を書くため *早乙女は庶民の資料、松浦は米国資料をもちあわせる/早乙女は東京空襲の体験が「初めて総合的になった」と感じる/「これは無差別絨毯爆撃だということが科学的に証明された」という感じ/「「東京空襲を記録する会」をつくるにいたった一番最初のきっかけ」
1968.3 松浦「書かれざる東京大空襲」『文藝春秋』 *松浦は、「これで東京空襲告発のステップを得た」と感じる
1970.3.10 「声」欄『朝日新聞』に「子に語ろう3月10日」早乙女
1970.6.20 葛飾区で家永三郎がいまの子供たちの教科書について講演会/早乙女は教科書に残してもらいたいことの一つに東京大空襲をあげる/その後、早乙女たちの「要望書」作成などに協力
1970.7.7 早乙女が東京都知事室へ訪問/秘書の石坂新吾を会見/好感触
1970.7.7 『朝日新聞』が「東京被爆記」を連載
1970.7.7 早乙女が有馬頼義を訪問/協力を取り付ける *早乙女によると「決定的な段階を迎える」
1970.7.9 早乙女は江東区深川図書館に調査/そこで橋本代志子から涙ながらの体験談を聞く
1970.7.9 早乙女は深川小学校の石上正夫を訪問/石上は父母から体験記を集め、『炎の街』という本を教職員組合江東支部でまとめる予定/協力
1970.7.10 早乙女が松浦を訪問/東京空襲を記録する会という名称が決まる *松浦によれば、「記録する会っていう意識は、やはり潜在意識のなかに「生活綴り方運動」ってのがあって、「東京空襲を記録する会」ってのが生まれたような気がする」
1970.8.5 東京空襲を記録する会が結成
都知事に「美濃部亮吉東京都知事へのお願い」を手渡す/いくらかかるのかという質問/知事は援助を約束
1970.9.28 任意団体「東京空襲を記録する会」がスタート *このとき、会の方式として、[1]都庁内に事務所をおいて都職員が「空襲・戦災誌」をつくる。それに早乙女や松浦が協力する方式[2]財団法人をつくり東京都が経済的に援助し、編集は松浦などがやるという方式の対立/結局有馬が強力に薦めた[2]が採用
1970.10 早乙女「東京空襲を記録する」『世界』 *早乙女にとって、東京空襲を記録することの意味:正確な死者数、犠牲者数も資料により曖昧・来襲機B29の機数も曖昧・「平和の思想をこの手ににぎるには、25年前の戦争の真実をしかと見きわめ、10万人の犠牲者の浮かばれる道を自分なりに考えたかった」/橋本の「私の両親と妹は、なんのために死んだのでしょう」という問いに答えをかえすことができなかった。「胸のおくの魂の声をきいた」ように思う。橋本も「いままでその体験を書いたり、しゃべったりすることは、まったく考えられなかった」。だとすると、「きいたほうの人間としての責任がともなう」→「「庶民の戦災史」を中心的な骨格とする「東京空襲を記録する会」の成立を、具体的に自分の中にかためる」 早乙女「東京空襲を記録する」『世界』1970.10
1970.11.1 新宿三光町に事務所開設
1970.12 理事会・評議委員会メンバーに要請状→承諾
1970.12 有馬・松浦・早乙女・土岐・下川らで東京都と交渉/とくに土岐の活躍
1971.1 早乙女『東京大空襲』岩波新書
1971.2 『東京被爆記』朝日新聞社
1971.3 東京度教職員組合江東支部編『炎の街?東京空襲3月10日』発行 *石上が中心/記録する会への協力/教育現場との関係/1970.7.22『朝日新聞』に企画が紹介され、その後、早乙女が訪問【記録する運動の下支えに教育者の運動】 東京度教職員組合江東支部編『炎の街?東京空襲3月10日』
東京空襲の戦災体験段は数多く記録する会へ送られている。2巻に収録されている「空襲体験記・収録刊行物リスト」によると、「教師・生徒・PTAによるもの」が26冊、「婦人団体・市民団体によるもの」が16冊、「同人誌、雑誌」が10冊、「個人の記録・その他」は18冊で合計70冊。そのうち、出版年次が、70年以前のものが21冊、70年が9冊、71年26冊、47年14冊
1971.4 財団法人「東京空襲を記録する会」が認可、『東京大空襲・戦災誌』の編集にあたる *編集スタッフは、有馬、松浦、下川、黒田秀俊、早乙女、土岐、姫田浩代、小山内美千絵、山下勝でスタート/秋に川上一郎、菊地重郎、斉藤有子が加わる
1971.6 松浦「庶民の側からみた戦争記録」『出版ニュース』
1971.8 第1回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議(東京)
1971.8.15 草の実会「第一グループ」「ざくろ」『あつい焦土の夜』 *橋本を中心に生活記録グループが大空襲の記録を書きまとめる/会誌157号に橋本が「東京被爆記」を書いたことから始まる
1972 橋本などは江東区に母子像作りの請願書を提出→82年完成 橋本代志子講述『二度と許すまじ』1990
1972.2.25 炎と恐怖の記録?東京大空襲展/朝日新聞社と共催 *展示を見学した教員から東京大空襲の資料を展示する常設の資料館が必要という感想が「声」欄に[斉藤「地域社会に根ざした博物館を」『月刊社会教育』1972.12]
1972.2 東京江東社会科サークル「東京大空襲をどう教えたか」『歴史地理教育』193
1972.8 第2回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議(東京)[以下、全国連絡会議は省略]
1973.3 『東京大空襲・戦災誌』第1・2巻刊行
1973.秋 記録する会のなかで、空襲記念館をつくる運動がはじまる *会が収集した史料を一括して保存し、展示したい 松浦総三「空襲・戦災記念館創設運動?戦争の記録の保存・公開を願って」『図書館雑誌』1980.8
1974.3 『東京大空襲・戦災誌』が全5巻刊行
1974.3 財団法人「東京空襲を記録する会」は解散/任意団体へ
1974.4 「東京空襲・戦災記念館をつくる会」が発足 *編集のために蒐集した膨大な資料を保存、展示する記念館をつくることを目的、76年3月まで資料収集整理にあたっていたが、不況のため、記念館建設は達成せず 記録する会『東京大空襲の記録』三省堂、1982
1974.10 『東京大空襲・戦災誌』が菊池寛賞を受賞
1976.3 「東京空襲・戦災記念館をつくる会」が解散?/東京都からの補助はなくなる
1979.2 「空襲・戦災記念館(仮名)を東京に設置することへの公開要請書」を東京都知事立候補者へ提出 *鈴木俊一は「双手をあげて賛成」と返書/『読売新聞』1979.3.4に記事に 『朝日新聞』1982.3.21/早乙女勝元『平和に生きる』草土文化、1982

*『東京大空襲・戦災誌』より