母子像東京大空襲・戦災資料センター

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表2 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議関係年表

回数 年月日 場所 議題/各地域の報告など 参加都市 備考
1 1971.8.14 東京 [1]連絡会議の趣旨説明と開催経過の報告[2]各会結成の経緯と記録の交流について[3]アピールの討議[4]その他/各会の報告/那覇:市が中心となって記録集を完成/大阪:小さな文集を完成。反響大。文化人の動きはない。庶民の力で下から記録する会を盛り上げる/福井:空襲とともに戦後の自信の被害も大きい/静岡:家庭教育雑誌「母と生活」誌上で戦災体験記の特集を組む。反響大/仙台:市民の手で戦災記録をつくる運動/浜松:戦災者に対して国が保障をとるよう連絡会議が活動することを提案/神戸:神戸新聞に戦災記が連載され、結成の準備/横浜:戦災の場合資料は残っていない。戦後市の大半が接収されたため/全国連絡会議:各地の会は情報の交換を活発にやる。各会の地域の特殊性は尊重されねばならない。当分の間、連絡会議の世話役は東京がやる 仙台・東京・川崎(欠)・横浜・福井・静岡・浜松・名古屋(欠)・大阪・神戸・那覇/11都市
2 1972.8.12 東京 [1]各会のこの一年の報告[2]資料・記録の内容紹介[3]これからの計画[4]提案議題その他 仙台・千葉・東京・川崎・横浜・敦賀・福井・静岡・浜松・名古屋・大阪・神戸・那覇/13都市
3 1973.8.11 名古屋 各会の報告/高松:47年3月に会を結成。『高松の空襲』刊行/姫路:48年に記録集3000部出版/神戸:慰霊碑建立計画が市と話しあいがつかない。「空襲戦災相談所」設置を計画。「空襲記念日」の提案中/大阪:『大阪大空襲』第2集を出版。あくまで民間運動で継続/京都:空襲の実態を解明/名古屋:被爆体験記の収集。大空襲展は連日満員。全国傷害者連絡会議代表より「戦時災害援護法」制定のため請願署名に協力依頼/伊勢:実態解明/浜松:戦災資料館の建設。傷害者・戦災者の国家補償をめざす/静岡:戦災資料展は成功。その際集まった資料の保存を市は拒否/川崎:在日朝鮮人の被災資料不足。市で記録運動を進める/横浜:市が責任をもって資料を蒐集、保存(資料館をつくる)を行う方向で運動/立川/東京:『東京大空襲・戦災誌』刊行予定。昭和50年をめざし日本空襲戦災資料館設置の運動をすすめ、全国規模で資料を集める/敦賀:47年7月『敦賀空襲の記録』第1集を刊行/福井:体験記録70編と米軍史料をもとに空襲通史を編集したい。創作オペラの上演、母と子の合作による平和教材など紹介/仙台:戦災を語る会を毎月1回開催。空襲の記録を出版し、市も補助。8500人もいた外国人の記録がないことが問題〔『長崎証言ニュース』NO20、1973.9.25〕/空襲を記録する会は全国に37ある/資料館構想 釧路・仙台・東京・立川・川崎・横浜・静岡・浜松・名古屋・津・福井・敦賀・京都・大阪・神戸・姫路・広島・高松・長崎/19都市
1973年秋 「アメリカ押収資料の返還・公開を要求する会」つくられる/73年12月6日、美濃部都知事に[1]アメリカ押収資料のマイクロ購入費の援助[2]空襲、戦災資料を保存する資料館の建設を要求[「仙台/「市民の手でつくる戦災を記録する会」会報NO4、1974.1.10]
4 1974.8.11 横浜 [1]空襲記録と教育の関連[2]記念館、資料館構想[3]市民による慰霊祭、戦災死者の冥福を祈り、平和を訴える慰霊碑建立、戦災死者の名簿作りなど進む[4]一方で、財政難など自治体の協力をどう求めるのか[5]戦災30周年をむかえ、講演会や空襲展を連鎖的に開いて、運動の輪をひろげる 仙台〜那覇の13都市
5 1975.8.9 神戸 報告「空襲・戦災記念館をつくる運動から」(松浦総三)*各都市の空襲・戦災の記録を集大成しようという申し合わせが行われた[「『日本の空襲と戦災』(仮題)編纂についてのお願い」] 福山・敦賀・福井・津・滋賀・呉・岐阜・仙台・岡山・立川・伊勢・香川・高松・那覇・宇都宮・大阪・横浜・岡崎・東京・名古屋・広島・神戸・小田原・宇和島・長崎・福岡・姫路・京都・長岡の29団体 *「記録集刊行は事業の終わりではなく、体験の伝承が必要である」ことが確認された[斉藤「空襲・戦災記録運動の10年」『歴史学研究』483、1980.8]
6 〔1976〕 〔宇都宮〕 パネラーは、今井清一、一色次郎、君本昌久、早乙女勝元/今井:「記録する会というのは、いわば組織から遠いところではじまった運動」「戦争責任からはいちばん遠いところにあった人びとこそ、被害者であった」「軍・官・政界のように組織にあった人びとの戦争体験はそれなりに記録されているが、組織から遠いところにいた」体験者は、自ら名乗りでることも苦しい状態であった。「組織されがたい人びとであるが、これからも組織らしくない組織、運動がすすむだろう」「いっぽうで、米軍側資料をみると、事前調査を綿密にやっている。日本側の受けとり方とは異なっている例もあり、今後は、全国的に連絡しあって、空襲の全体像を立体化していくことが必要だろう」/一色:「空襲全集も計画したが、出版界の実情では実現は困難である。地方的な出版のほうがようものができるのではないか。全国集会も実務や費用の点を考えると、困難なのではないか」/君本:「空襲体験」は「中心は婦人であり、」「月日もたっていて、さまざまな体験を集めることも、組織することも困難である」「一方では、戦災被害者の救済という問題もでてきており、記録か実践かというジレンマもでてきている」/早乙女:「東京の会は、体験者の義務として出発した。記録のないものは伝承もできないからだ。そのため、参加者の立場、意見は異なっていても、まず、事実の確認から始めた。意味を討論していては一致できないからだ」「記録集の刊行が終わった今日では、その生かしかたは、また各人多様でよいと思う」 〔11都市〕 各地の報告を文書提出にして、シンポジウムに時間をかけることになる。/参加者も半減/記録集を大半の会が完了[斉藤秀夫「空襲・戦災記録運動の10年」『歴史学研究』483、1980.8]
7 1977.8.7 福山 [1]各地よりの報告[2]分科会(第1分科会:空襲記録と教育/第2分科会:空襲記録の活動)[3]記念講演会(「平和は歩いて来ない」早乙女勝元/「戦争とマスコミ」松浦総三)/各地の発言/横浜(新しい運動再出発:[1]刊行総括としてのシンポの活字化[2]草の根の記録運動[3]資料館[4]全県拡大)/福井:ゆきのした文化団体([1]福井・敦賀の戦災誌[2]演劇[3]高校:親からきく空襲など)/全傷連(杉山千枝子)/広島教育研究所(平和教育とマスコミ、修学旅行の生徒各地の自分の郷土の空襲を知らない、具体的教材化) 20都市25団体
1978.8.1 『日本の空襲と戦災』(仮題)編纂についてのお願い
8 1978.8.5 岡崎 [1]講演「米空軍戦略爆撃の研究から」今井清一[2]「戦後を考える」福田静夫[3]意見交換[4]「国際軍縮総会に出席して」および「第8回全国連絡会議のまとめ」松浦総三/各地の発言/東京:映画、資料を江東図書館一室、都知事の如何によっては民間/岡崎:空襲記念日、碑(市より拒否、財界市民の手で)、すいとん/名古屋:完結をいそぐ/津:歴教協、8月14日追悼式/京都:母体崩れて休業状態など/「各都市の記録の集大成」日本の空襲記録各地に広がる点を線に、仮称「日本の空襲と戦災」8ブロック全国他1全9巻 〔16都市〕
9 1979.8.11・12 高松 [1]講演「この道はいつか来た道」早乙女勝元[2]「空襲ととりくんだ十年間」松浦総三[3]各地からの報告/全国戦災傷害者連盟/全傷連:第7回福山大会のアピールで各地の戦災傷害者をさぐり出すことになったが、その後全く連絡ない。どうか戦災傷害者を忘れないで下さい。/神戸:中央図書館の一部に戦災記念室を設ける、戦災記念建造物の保存/高知:高校生が父母から聞き書きした高知空襲の冊子の評判よい、資料館建設、戦災傷害者の実態調査/大阪大空襲の体験を語る会:体験記・空襲展へ協力/大阪・戦争体験を記録する会:戦争資料館、加害者でありつつ被害者でもある体験/横浜:研究者と主婦、教師、若者が一体となって取り組む、資料館構想、米軍資料、新しく普及版の記録を刊行予定/高松:在日外国人(「朝鮮民族・台湾系中国人・戦争捕虜」)の空襲死の調査に取り組む、戦災傷害者の補償問題への取り組みの具体化をどうするか 20団体
10 1980.8.2〜3 那覇 各記録する会活動報告/高松/神戸/東京「映画「東京大空襲」完成を」[1]江東区の空襲犠牲者の慰霊碑の設立が採択[2]78年4月テニアン島に「鎮魂不戦之碑」を建立/今後の目標[1]10年間の会活動の集大成として「日本の空襲」が完成寸前[2]「戦災・空襲記念館」の設置について予算措置をともなった建設のメドが立った[3]映画「東京大空襲」を制作するため日活と契約を結ぶ/佐世保「資料館建設請願採択さる」/長崎「原爆体験の思想化をめざして」/福井「空襲・戦災と文化・芸術を考える会」を[1]「福井空襲史」を刊行。刊行会は解散[2]福井空襲を語り伝える会→市民を主体とした「7月19日を忘れない会」へ[3]市民的規模で福井空襲の夜をクライマックスとする創作劇「エリーゼのために」が反響[4]今後敦賀に協力[5]空襲・戦災をいろいろな表現で訴えるという運動の必要。「戦争・空襲と文化芸術を考える会」のようなものが作れないか。記録化の推進と語り伝える運動をよりかためるための力の一つとして、会報発刊を軸とした個人有志のような会はどうだろうか/全国戦災傷害者連絡会会長杉山千佐子「戦時災害援護法の早期実現を」 〔29団体〕 戦跡めぐりと一体に

*「今井清一文庫」による。なお、〔 〕内は斉藤秀夫「空襲・戦災を記録する」『歴史評論』382、1982年2月号より。