【10】『ヒロシがいた橋』上映&シアタートークを開催しました
当日の模様を報告します
5月14日、東京大空襲・戦災資料センターの資料を読む会との共催で、証言映像作品『ヒロシがいた橋』の上映&シアタートークを開催しました。
証言者は、1930年生まれ、向島区吾嬬町西で1945年3月10日の東京大空襲を体験した星野弘さんです。
星野さんは、1990年代後半から、空襲犠牲者の名前を記録する活動を続けてきました。作品では、その原点となった体験を、少年時代の「ヒロシ」に尋ねました。
「ヒロシ」の証言には、小学校中学年以降の年齢になった少年が、地域の人間関係を通して、次第に「戦争」の当事者になることを意識させられていく様子が語られています。
9歳のとき、「ヒロシ」は少年団に入り、そこで集団生活を覚えます。「ヒロシ」は少年団でラッパ手となり、出征する兵士の見送りや戦死した英霊の出迎えに立ち会います。その舞台となったのが、いまも墨田区の北十間川にかかる十間橋でした。
ところが、日中戦争がはじまると、少年の「ヒロシ」に影響を与えた指導員や剣道の先生は次々に徴兵され、戦死してしまいます。
1940(昭和15)年4月、国民学校ができると、少年団は学区単位に再編され、指導者も在郷軍人や警防団に切り替わります。星野さんは、自主的な少年団の雰囲気を変えてしまったこの出来事を、「戦争がすごく近づいたっていう感じの最初かな」と回想します。
1944(昭和19)年に入ると、お姉さんは工場に勤労動員され、「ヒロシ」もまた、進学した工業学校の同級生とともに、海軍の少年飛行兵に志願します。
こうして、ひとりの少年が、何重もの糸でくるまれるように、戦争と容易には離れることのできない関係のなかに巻き込まれていくのです。
東京大空襲と遺体処理のなかで見た風景の衝撃をへて、戦後、尊敬する兄の戦死の知らせ、人前で泣き崩れる母の姿、朝鮮戦争の勃発をきっかけに、「ヒロシ」は、幼いなりに感じとってきた戦争への思い、怒りをなんとか組み立て、それが、数10年後、空襲犠牲者の氏名記録に取り組む土台になったと語ります。
地域社会は、ひとりの少年に兵士の予備軍としての意識を植え付けることもあれば、戦争が当たり前であるという意識から脱する足がかりになることもあります。
戦中・戦後の下町を生きてきた「ヒロシ」の体験は、地域社会と戦争の複雑で悩ましい関係、そのからみ合う関係のなかで、人はどうあるべきかを問いかけています。
解説では、戦争の流れと「ヒロシ」の個人史を照らし合わせた「個人史の軌跡」年表、「ヒロシ」の生活世界を地図に落とした歴史地図、3月10日の焼失区域を撮影した米軍の空撮写真などを示しながら、「ヒロシ」の証言を読み解きました。
その後は、あらかじめ渡したメモ用紙に書き留めてもらった「印象に残ったことば」をもとに、感想の交流会。
「工業学校の同級生50人のうち40人が志願したという話に恐さを感じた」、「10代の前半の学校生徒が遺体収容に当たったという事実は知らなかった」、「体験のない世代にとっては証言だけでは分からない、もっと間をつなぐ情報をていねいに入れる必要があるのではないか」など、多くの感想がありました。
今後の作品づくり、上映会の企画に生かしたいと思います。
※本作品は、センター館内でいつでも見ることができます。ぜひ、ご覧になってみてください。
過去の上映&シアタートーク
2014年4月15日
『ある主婦の語り―空襲を生きて』(証言 橋本代志子、本所区石原町で被災)
2014年5月15日
『隅田公園で起きたこと』(証言 清岡美知子、浅草区馬道で被災)