【15】「隅田公園で起きたこと」上映&シアタートークを開催しました
当日の模様を報告します
証言映像作品の上映&シアタートークの2回目は、浅草の言問橋・隅田公園周辺で1945年3月10日の空襲を体験した、清岡美知子さんの証言をとりあげました。
清岡さんは、1923(大正12)年、関東大震災で家族が避難した先の長野県松本市生まれ。上野の商業学校に通いながら、タイピストの技術を身につけ、1942年、東京府庁に就職しました。お父さんは、寄席の芸人さんで、地元・馬道一丁目では防空群長でもありました。清岡さんは、下町の大空襲でお父さんとお姉さんを亡くしてしまいます。
作品の前半で、自分に芸を仕込もうとするお父さんに反発しながら、「気質になりたかった、固い職業になりたかった」と語る印象的なシーンがあります。
清岡さんの生涯を見ると、江戸文化が色濃く残る環境に育ちながら、丸の内の職場に通い、戦後は都庁の職員と結婚し、世田谷区の都営住宅を経て、練馬区の住宅地に家庭を築きます。下町から郊外へ―その「移動の軌跡」をたどってみることが、作品のひとつのテーマでした。
1963年、清岡さんは新聞の投稿欄で空襲の遺族会結成を呼びかけます。「無駄死にさせたくないです」と語るラストの言葉には、言問橋の惨状を目の当たりにした者の思いがにじんでいます。3月10日の下町で起きた出来事を思い起こしてもらいたい―その語りにこもった呼びかけを「隅田公園で起きたこと」のタイトルに取りました。
会場では解説のほか、清岡さんの生涯と社会の動きを対照した「個人史の軌跡」年表、家族アルバムからお借りした戦前・戦後の写真、戦前女子教育に関する統計資料などを配付。作品上映後、参加者それぞれの「気になることば」をメモし、それをもとに感想を交流しました。
厳しい寒さのなか、ずぶぬれになって川から上がったあとの極限的な状況、氏名不詳の墓標が立ち並んでいた隅田公園の仮埋葬地の様子、名前も分からず引き取り手もいない遺骨のこと、対象を軍人・軍属に限定した戦後補償の問題点、「銃後の守りっていうのもやっぱり国民ひとりひとり何かやらなくちゃいけない」「お茶だ、お華だってやっている時代じゃない」という言葉に、戦争を前提にした考えが生活のなかに入りこんでいくことの恐さなどが語られました。
この日の参加者は13人でした。
証言映像作品の上映&シアタートークは今回でいったん終わりとなります。
センターとしてもまた続編を企画したいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
※証言映像作品は、開館時であれば、館内でいつでも見ることができます。