【16】昨秋の「無差別爆撃国際シンポジウム」の報告です
東京大空襲 ・戦災資料センター主催
「無差別爆撃国際シンポジウム」の報告
遅ればせながら、昨年10月11日に江戸東京博物館1階ホールで開催した「無差別爆撃国際シンポジウム−−世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか−−ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」の報告を掲載します。この報告は、東京大空襲・戦災資料センターの山辺昌彦主任研究員によるもので、『ミューズ(MUSE)−−平和のための博物館・市民ネットワーク通信』の第22号に書かれたものを、著者の了解を得て転載しています。(写真は、今回追加したものです)
東京大空襲 ・戦災資料センター主催
「無差別爆撃国際シンポジウム」の報告
山辺昌彦
東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室主催による「無差別爆撃国際シンポジウム−世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか−−ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」が2008年10月11日に江戸東京博物館1階ホールにおいて開催されました。第6回国際平和博物館会議に連動した企画で、山根和代さん、谷川佳子さん、加藤ニコルさん、池谷りささん、安斎育郎さんには特にお世話になりました。ありがとうございました。
これは、空襲で大きな被害を受けた世界の被災都市は空襲被害の実態をどのように検証し、伝えてきたのかを明らかにするもので、具体的には、20世紀の戦争で大きな被害を出した、スペインのゲルニカ、中国の重慶、東京という3都市の博物館で、空襲の展示・研究に携わってきた専門家がはじめて一同に集い、無差別爆撃に関して、博物館における研究や展示という記憶継承活動の歩み・現状・課題について出し合い、議論をしたものです。参加は195名で、実証的で充実した報告があり、活発な質疑がおこなわれました。以下その概要を紹介します。
まず、作家で東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元さんが開会の挨拶をしました。その中で、早乙女さんが重慶やゲルニカを調査した経験も紹介し、第2次世界大戦における無差別爆撃の民間人の被害も追体験の時代になりつつあり、新たな市民の運動が始まっていることを話しました。
次いで、司会を務めた一橋大学大学院教授で戦争災害研究室長の吉田裕さんから次のような問題提起がありました。
1、第2次世界大戦の直接の記憶を持つ人びとが少数派になる中で、空襲の体験を記録化し、記憶として継承することが問われおり、この問題を博物館における展示の問題を中心に考えてみたい。
2、民間人への無差別爆撃が今日も世界の各地で続けられおり、第2次世界大戦の空爆の犠牲者に対する戦後補償の問題は未解決のままで、切実で現実的な課題です。
3、この問題を1国史の枠組みでとらえられないので、国際シンポとして企画しました。
報告は以下の3本です。
第1報告はゲルニカ平和博物館館長イラッチェ・モモイショさんの「ゲルニカ 恐怖の体験」でした。 パワーポイントを使った報告と、あわせてゲルニカ空襲を紹介するDVD「ゲルニカ・ストリー」も上映しました。報告ではまずスペイン内戦の概要を話し、次いでゲルニカ爆撃の実態を話しました。爆撃はイタリアの空軍に護衛されたドイツ空軍のコンドル軍団によって実施されました。爆撃は、3つの段階で実行されました。第1段階は建物を破壊するために250〜300キロの高破壊力爆弾が使用されました。第2段階は1キロの焼夷弾が投下されました。第3段階では 住民に対する機銃掃射がなされました。犠牲者の正確な数はわからないが、一般的には250人が死亡し、数百人が負傷したとされています。
フランコ軍は責任を認めていません。逆に証拠はねじ曲げられ、フランコ側の報道陣は、バスク共和国軍が、ビルバオから撤退する途中で町に火を放ったと主張しました。ピカソの有名な絵画「ゲルニカ」は、ゲルニカという町の名前を世界に広めることになり、反戦の叫びの象徴となっています。1998年にオープンしたゲルニカ博物館(2003年にゲルニカ平和博物館に改名)は、町の記憶を広め、知らせる博物館であり、過去を記憶し、未来のための博物館でもあります。
第2報告は、重慶市・三峡博物館副研究員の李金栄さんの「重慶大爆撃を証明する−−口述史料から見る中国侵略日本軍の都市爆撃・住民虐殺の戦争犯罪」でした。報告の前にまず、重慶爆撃を再現したジオラマを中心に、重慶中国三峡博物館の展示を収録したDVDを上映し、紹介しました。報告の概要は次のようなものでした。
1938年2月から1943年8月まで、日本軍は戦時中国の首都である重慶に対して、5年半にわたり重慶大爆撃をおこないました。日本軍は、飛行機9513機を出動させて218回の爆撃をおこない、爆弾21593発を投下して、民家17608棟を破壊し、重慶市民25989人(重慶大隧道惨案と長江沿岸都市の死者は含まれていない)を爆死傷させました。その中の大事件には、5.3、5.4大爆撃、8.19大爆撃と較場口大隧道惨案があります。1980年代から、重慶市博物館は重慶大爆撃の資料を収集し、研究もして、『重慶大爆撃文物資料展』を開催し、『重慶大爆撃写真集』を出版しました。2000年からは重慶大爆撃体験者の聞取をし、体験者の口述資料160人分と写真資料250枚を収集・整理しました。
報告では重慶大爆撃事件の15名の体験者の口述史料を紹介しましたが、そこから言えることは次の3点です。
1、重慶大爆撃の本質は、空から爆弾を投下し、住民を虐殺する行為であり、東京、広島が爆撃されるより早く、日本軍が大後方の市民を爆撃したものです。
2、重慶大爆撃を画策した戦犯は制裁を受けていないし、遭難した住民も賠償を受けていません。重慶大爆撃の戦争責任を追及しなければ、心の痛手が癒されません。
3、重慶大爆撃は決して単に過去の歴史事件ではなく、第2次世界大戦後、この戦争の様式は全世界範囲に拡大しました。重慶大爆撃の犯行を清算しなければ、空中から都市を爆撃することをなくすことは出来ないし、この歴史が再び演じられることになるであろう。
第3報告は東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山辺昌彦の「日本の「平和のための博物館」における空襲研究と展示の歴史と現状」でした。まず第1に前史として、空襲を記録する会による記録運動と展示を、第2に、1980年代からの大阪での先進的な資料収集、研究、展示の取り組みを、第3に、日本全体における博物館での空襲展示を、第4に東京大空襲・戦災資料センターの設立経過と展示内容を、第5に、東京の歴史博物館での、特徴的な東京空襲に関する展示を紹介しました。第6に、日本の博物館における重慶空襲の展示について、無差別爆撃の歴史の中で、重慶爆撃を位置づけたり、日本の侵略戦争における加害の1つとして位置づけて、重慶市民の被害をも紹介していること、日本軍の加害が日本の市民の被害をもたらしたことを示していることも紹介しました。
第7に現在の研究の到達点を以下のように紹介しました。
[1]無差別爆撃と国際法については、植民地独立運動鎮圧戦争で飛行機が使われ、毒ガスも使われていること、空爆を規制する「ハーグ空戦規則」がつくられ、実定法ではないが、1930年代後半には国際慣習法化した、
[2]B29による日本本土空襲には、軍需工場爆撃、大都市焼夷弾空襲、機雷投下、九州の基地・飛行場爆撃、石油基地への爆撃、中小都市焼夷弾空襲、模擬爆弾・原子爆弾投下がある、
[3]東京大空襲の決定と位置づけでは、アメリカ軍は1944年4、5月には、B29の機数が十分揃って、季節風が強い、1945年3月から東京など大都市の市街地への大量焼夷弾攻撃を始めることを決定していたこと、東京大空襲は、空軍独立のために、成果を上げることも狙ったものであり、司令官個人の決定ではない、
[4]東京大空襲の実相では、3月10日の大空襲の目標地域は焼夷弾に最も弱い地域で、ここには明確な軍事目標はなく、市民の居住地であったこと、多くの市民が逃げ場を失い、避難所も火災に襲われ、約10万人が犠牲となったが、これは、空襲警報が遅れ奇襲となったこと、木造家屋の密集地に大量焼夷弾が投下され強風により大火災となったこと、川が縦横にあって安全な所に逃げられなかったこと、逃げないで消火しろとの指導により逃げおくれたことなどがその理由と考えられている、
[5]被害者への補償では、戦時中は戦時災害保護法によって民間人にも給付金を支給していたが、戦後は生活保護法の制定により戦争被害者への特別の給付がなくなり、連合国の占領が終わると軍人・軍属のみを対象とする特別給付が作られ、対象外とされた民間人は、国家補償を求める運動をした。最後に補足的に、連合国による中国への爆撃がもたらした中国の民間人への被害を考える必要があること、和解にはその前提として、事実を明らかにし、謝罪、補償をしなければならないことも話しました。
論文参加は、コベントリー大学・平和・和解研究センターのアンドリュー・リグビーさんの「戦争を後世に伝える−−ヨーロッパの2つの街コベントリーとドレスデンの体験談」と重慶中国三峡博物館の馮慶豪さんの「重慶無差別爆撃が外国大使館・領事館及びその他の中国駐在機構に与えた傷害状況についての初歩的研究」でした。
報告に続けて沖縄大学客員教授の前田哲男さんから以下のようなコメントがありました。まず、民族としてではなく、共有されるものとして継承が必要で、ドイツにも極右の見地からの空襲継承が出てきているが、そうではなく、侵略戦争の中での体験として共通のものとしていく必要があることを話されました。ついで、最近の空襲研究を紹介し、 最後に、中国の重慶爆撃の報告の背景説明として、重慶が首都として政治中枢であったので、日本はそこを落としたかったが、地上から軍隊が行けないので、空からの爆弾で抗戦意欲をなくそうとする戦略爆撃をしたことを話しました。さいごに重慶爆撃を現在、未来につなげて考える必要があることも言われました。
討論は以下のような内容でした。まず、ワルシャワ空襲を取り上げる必要があるとの意見が出ました。ゲルニカへの質問には、ゲルニカ空襲の犠牲者は、名前などの証拠が残る犠牲者は180名であり、そこから現在は250〜300人が犠牲になったと考えていること、なぜゲルニカが目標になったのかについては、ゲルニカが工業都市や鉱山や交通の要地に近かったこと、バスク民族の象徴的な土地で、バスク民族を滅ぼすためであることを回答しました。
重慶への質問には、重慶が焼き払われないで、屈服しなかった理由は、霧の町、山の町であったこと、40万人が避難できる頑丈な防空壕を掘ったこと、警報システムが有効に機能していたことがあること、重慶には軍事施設はなく、軍需工場は郊外の山にあったが、ここは爆撃されなかったことを回答しました。
共通質問の、アメリカ軍の日本空襲についての博物館での展示に対しては、ゲルニカでは広島・長崎原爆の特別展を昨年したが、その他の空襲は展示していないこと、重慶をはじめ中国では展示はないが、研究する必要は言われはじめているとの回答がありました。博物館の開館は最近だか、それ以前動きについての質問には、ゲルニカは、独裁政権があって、空襲は無かったとされていたので、犠牲者が発言できなく、1980年代から民主主義になって口述史料の収集もできるようになった、重慶は1985年までほとんど調査も無く、最初は実物の資料を収集し、1993年から展示を始め、1996年から生存者の証言を取るようになった、との回答がありました。
日本政府は重慶爆撃を謝罪しているかの質問については、村山談話を謝罪と考えるなら、謝罪しているが、日本政府は無差別爆撃や市街地爆撃を認めていないので、重慶には謝罪も補償もしていないとの回答が前田さんからありました。
まとめの質問、爆撃の責任者は明らかになっているのかについて、ゲルニカは、フランコが暗黙の了解をしたことは明らかで、ドイツ政府は責任を認め、補償にも発展しているが、イタリアはまだこれからであると回答しました。重慶については前田さんが、爆撃は天皇の名の命令によるものであり、現場の決定者や実施部隊の司令官も明らかになっているが、重慶爆撃は東京裁判で訴追されなかったと回答しました。日本は、従来はルメイの責任が言われていたが、ルメイの独創性もあるが、都市爆撃は統合参謀本部の決定であり、アメリカ軍全体の責任になる、と回答しました。
和解に向けて、ドイツの戦災都市ポルツハイムと姉妹関係の都市関係を結んでいることについての質問に、ゲルニカから、姉妹都市とは若者が交流し、被害を語り合うことが積み重ねられているとの回答がありました。最後に各報告者から、ゲルニカ、重慶、日本いずれも、若者の関心が低く、空襲の事実が知られていないので、努力していることが話されました。司会から課題として、記憶の継承と共通の難しさがあること、記憶がせめぎ合いの中にあることが話されました。
このシンポジウムの報告書が完成しています。無料で配布していますので、ご希望の方はこちらのページをご覧ください。