母子像東京大空襲・戦災資料センター

【14】7月25日から特別展が始まりました

東京大空襲の生き証人
鈴木賢士写真展

写真展会場7月25日(木)から、東京大空襲・戦災資料センター特別展として「東京大空襲の生き証人−−鈴木賢士写真展」が始まりました。センター2階の会議室に約60枚の写真が展示され、東京大空襲の意味を問いかけます。ほとんどの写真がモノクロームで構成されているので、それがよけい観る側の想像力をかき立て、思索を深めてくれるのでしょうか。8月20日(月)まで(8/20を除く月・火は休館)。7月29日、8月5日、8月19日には鈴木さんによるギャラリートークも予定されています。(この写真展の案内チラシは、この「お知らせ」のNo.10をご覧ください。開催趣旨なども掲載されています)

以下は、鈴木さんがこの写真展に寄せてくれたメッセージ。会場にも掲示されています。

ごあいさつ

鈴木賢士さん 1945年3月10日、アメリカ軍のB29が下町を焼き尽くした東京大空襲は、史上空前の被害を出しました。僅か2時間半の焼夷弾攻撃で約10万人の命が奪われ、100万人が焼け出されました。原爆投下に匹敵する大惨事です。

 ところがこの惨劇は、広島・長崎に比べると、一般には、いまだに実相が知られていないのが現実です。10万人もの死者を出したというのに、都も国も、犠牲者の氏名記録すら行いませんでした。東京には、被爆地にあるような独立した追悼施設もなければ、沖縄の「平和の礎」のような刻銘碑もありません。毎年3月10日に、首相の参拝もないのです。

「このままでは死者は浮かばれない」と、肉親を失った遺族たちやが声をあげはじめました。亡くなった人の「せめて名前だけでも」という、氏名記録の運動が広がりました。そして今、空襲による傷害者と遺族が、国に謝罪と補償を求める裁判を起こしました。

 歴史的に見ると、非戦闘員を無差別に殺傷する戦略爆撃は、日本軍による重慶大爆撃が最初です。米軍がそれを引き継いで、より大規模に行ったのが東京大空襲です。その後日本中の都市を焼け野原に変え、広島・長崎の原爆投下へと続きました。さらにいまも戦略爆撃の思想が、イラクやレバノンの空爆につながっていることを思えば、空襲の惨劇は過去のことではなくて、まさに現在の問題です。

 戦争というものが、一般市民にどれだけ大きな被害をもたらすかを、写真を通して伝えたいと思います。戦火で蒙った体と心の傷は、何年、何十年経っても、消えることはないのです。

展示風景 作品
モノクロームの写真が静かに語りかける 被写体との対話の深さが偲ばれる作品が並ぶ

鈴木さん著書 鈴木さんの雑誌記事
フィリピン残留日系人や韓国人被爆者、中国強制連行被害者、残留孤児などを扱った鈴木さんの著書 鈴木さんが最近執筆した雑誌記事(『いつでも元気』8月号)

2007年7月25日(水)〜8月20日(月)
12:00〜16:00
※8/20をのぞく月・火休館

東京大空襲・戦災資料センター2F
協力費:一般300円・中高生200円・小学生以下無料

ギャラリートーク(作家による作品解説)
7/29・8/5・8/19(すべて日曜) 13:30〜14:30
8/12(日)特別ギャラリートーク 13:30〜15:00
写真の解説………鈴木賢士さん
「証人」の語り…伊藤光世さんほか

鈴木賢士(すずきけんじ)

会場で解説をする鈴木さんフォトジャーナリスト。1932年東京都生まれ。戦争中は千葉県に疎開し、県立成東高校卒業後、家業の靴店を継ぐ。戦後は店を東京に移して、30歳で東京経済大学に入学し、卒業。雑誌記者生活を30年続けながら、在職中の50代の終わりから現代写真研究所に通い、戦争がもたらす不条理を一貫して追求するようになる。日本リアリズム写真集団(JRP)会員。1999年、公募写真展「視点」新人賞受賞。2000年、「週刊現代ドキュメント写真大賞」海外フォト・ルポ部門賞受賞。2001年、「視点」奨励賞受賞。2005年12月、『父母の国よ?中国残留孤児たちはいま』で「平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞」受賞。