母子像東京大空襲・戦災資料センター
戦争災害研究室だより題字

戦争災害研究室だより 第8号(2007年3月8日)
東京大空襲・戦災資料センター
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第7回研究会報告

日時  2007年2月25日(日)14:00〜18:00

場所  政治経済研究所会議室

報告題 日本の防空壕政策

報告者 青木哲夫

出席者 青木哲夫 荒井信一 一瀬敬一郎 鬼嶋淳 北河賢三 山辺昌彦 山本唯人(50音順)

報告要旨

I 3月10日東京空襲にみる防空壕
(『東京大空襲・戦災誌』第一巻の回想・手記より)

家庭から避難した場合の多くの事例

 自家用ないし共同・隣組の防空壕に入る→火がまわり、防空壕から出る→学校などの大規模な建物や空地をめざす→途中、他の防空壕(公共待避壕など)に入るが、ここも危険となり、出る(満員で入れない場合や、拒否される場合もある)→学校の地下室などに逃れるが、ここにも火が入って来る、懸命な消火活動、更に脱出するケースもある(そこで亡くなった例も多い)

ここから分ること

 特に言及していない例も含め、ほとんどの家では自家用ないし共同の防空壕を造っており、使用していた。しかし、大空襲の際、それらによって命が守られた例は皆無といってよい。公共待避壕ですら、ほとんどない。逆に防空壕中にいて亡くなった例は多い。本格的なコンクリート製地下室でも被害は多かった。

なぜ、そうなったのか

 防空壕についての政策の検討を通じて探る

※「防空壕」という用語

II 防空論のなかの防空壕

1)防空論の隆盛と問題

概ね30年代以後、防空論が各方面(都市計画、建築など)で盛んになる。住宅・空地帯・空地・緑地帯・都市疎開・防火建築・偽装など) 体系的な施策として政策化されるのは遅れ、試行錯誤・「その場しのぎ」的な要素が多い。

「徒らに議論が多過ぎる」「必要以上に防空便乗論が顔を出し過ぎてゐる」(中澤誠一郎「防火改修事業当面の問題」『建築と社会』41.3)

「然しその中、空襲必至と言うので、防空計画が始まり、それと同時に都市計画は特に内地の都市計画は下火になり出した。都市計画どころのサワギではないと言うのである。/そこで一つは都市計画陣営をマモル必要もあり、二つには戦火に見まわるべき生命財産を防御する為め、都市計画も又動員さる可きであると言うので、都市計画防空の研究を初めた。」「その中に土木緑地計画系統のものは専ら疎開に集中し、建築系統は防火改修を強調した。これは変な話だが、お互いに自家の説を強調して相手をソシりあった。」(石川栄耀『余談亭らくがき』)

防火改修政策(1939〜)  空地・空地帯(1943)  疎開(1944)

防空壕についての政策化は1940.12.24内務省計画局「防空壕構築指導要領」

2)防護室

初期は避難所・防護室の方が強調されている(特に防毒対策)

中澤誠一郎(大阪府建築課長)「都市の防空と建築」(昭和10年11月30日広島に於ける講演)(『建築雑誌』1936年3月)

「今普通に考へられて居りまするのは、避難所或は(ママ、避難所はカ)地下或いは1階に取りまして、之に対して防毒的な設備をすると言ふ事柄であります。さうして之を都市の要所要所になるべく小規模のものを数多く配置し、出来るだけどの部分からも、手近に避難し得るやうに配置するやうにと云ふことが、考へねばならぬ要点であります」(271ページ)「此の避難所を嘗て作りました例があるので此の実際の例を説明しますと、それは第4図の如き平面を持ったものでありまして、此の面積は約93平方米、収容人員が186名、之を半径3米の半円のものを造りまして、此の外側は鉄筋混凝土の1.1米厚さ?100瓩爆弾を予想して?斯う云ふ半切のシリンダーの形でありますが、さうして之に対して入口に防毒幕を垂れまして、此処を前室とし是から更に入りまして後室に収容する計画であります。前室に於きましては空気清浄化装置を設けまして、新鮮な空気を始終送り込み炭酸瓦斯を排除すると云ふ装置であります。」(272ページ) ここでは「避難」は当然視されている

1938年6月15日 

中央防空委員会答申

「一、 鉄筋コンクリート構造又ハ鉄骨鉄筋コンクリート構造ノ建築物ニシテ一定規模以上ノモノニ付テハ防護室又ハ容易ニ防護室ト為シ得ベキ室ヲ設クルコト、但シ倉庫其ノ他建築物ノ用途ニ依リ其ノ必要ナキモノハ此ノ限ニ在ラザルコト

 二、停車場、病院、学校、市場、工場等ニシテ一定規模以上ノモノニ付テハ防護室若ハ容易ニ防護室ト為シ得ベキ室ヲ設ケ又ハ之ニ代ル施設ヲ為シ得ベキ空地ヲ保有スルコト

 四、木造建築物ノ外部ニシテ隣地境界又ハ通路ノ中心線ニ近接セル位置ニ在ルモノハ適当ナル不燃材料ヲ以テ之ヲ構成又ハ被覆スルコト、但シ周囲ノ状況又ハ建築物ノ種類規模ニ依リ防火上支障ナキモノハ此ノ限ニ在ラザルコト」(『内務厚生時報』1938年7月、65ページ)(『都市公論』1938.7)

3)初期の防空壕のイメージ

爆弾・焼夷弾に対応できる堅固なもの、防護室に近い、屋内に防護室が設けられない場合にそれに代るもの

内務省計画局『国民防空の栞』昭和十三年十月(国会図書館蔵)

破壊爆弾ニ対スル措置

1、 木造家屋ノ防弾(ヂオラマ)

(一) 木造家屋ハ破壊爆弾ニ対シテハ全ク無抵抗デアルカラ空地ニ壕ヲ掘リ空襲時ニ備ヘル必要ガアル。(46ページ)

(二) 防空壕カラ室内ガ見易イ様ニ建具類ハ取除キ焼夷弾ノ落下ヲ直ニ発見シテ防火ノ処置ヲトリ得ル様ニシナケレバナラナイ。(47ページ)

三、防空壕(模型)

 家庭用防空壕ノ一例

一、 防空壕ハ庭又ハ空地ニ湿地ヲ避ケテ作ルコト

二、 防空壕ノ各材ハ釘、鉄、鉄線、方杖等デ堅固トスルコト

三、 防空壕ノ入口ハ屈曲シ置クカ或ハ防護塀ヲ設ケルコト、又防破片用■〔鉄カ要確認〕製扉及防毒幕ヲ取付ケレバ一層効果的トナル

四、 防空壕ハ雨水ノ流入防止及排水ニ注意スルコト

五、 防空壕ニ防毒設備ナキトキハ防毒面ヲ所持シテハイルコト

図 四、五人用防空壕 地下ニ構築スル場合

  八、九人用防空壕 半地下ニ構築スル場合

  五、六人用防空壕 地下ニ構築スル場合(49ページ)

第九 防護室

1、 防護室(模型)

 防護室ノ説明

(一) 防護室ニハ収容室ト前室ヲ設ケ前〔前室カ、様確認〕ヲ通ツテ収容室ニ入ル様ニ計画スルコト

(二) 防護室ニハ二ツ以上ノ出入口ヲ互ニ隔ツタ所ニ設ケルコト

(三) 周壁ノ開口部ハ気密トナシ窓等ハ適当ニ防護スルコト

(四) 出入口ニハ防毒扉ヲ取付ケ之ガ外気ニ面スル場合ハ耐弾的トナスコト

(五) 収容室ニハ人力ヲ以テ運転シ得ル空気濾過器ヲ設備スルコト

2、 独立防護室(模型)

○ 直径六尺余、長サ八尺位ノコンクリートノ下水管ヲ土ニ埋メ(地水ノ多イ所ハ地上に据エテ泥ヲカブセル)一方ノ筒口ニコンクリートノ前室ヲ造リ、ソレニ厚板ニ重戸ヲツケテ入口トスル。管ノ中ハ簡単ナ床板ヲ敷キ、両側ニベンチヲ設ケ、置便所モ備ヘル

○ コノ防護室ハ爆弾ノ破片ニ対シテ十分防護ノ効果ガアルト共ニ毒瓦斯ヲ避ケルコトコトモ出来ル。十人位ノ人ガ入ツテ室ヲ密閉シタ際、三十分位ハ換気シナクトモヨイガ手動式空気濾過器(価格百円位)ヲ備ヘツケレバ何時間デモ居ラレル。(50〜51ページ)

4)防空壕イメージの転換 臨時・簡単

佐竹保治郎(陸軍中将)「防空建築と土木の参考」〔都市防空に関する調査委員会委員・陸軍築城本部長 佐竹の著、陸軍築城本部が「防空参考資料第2号」として極小範囲に対し公にされたもの、佐竹より委員会に提出があったので、紹介するとのこと(昭和13年11月陸軍認可済)〕(『建築雑誌』1939.4)

第7章 防空壕

 第1節 防空壕の必要

「防空壕は爆弾の破片や風靡作用に対し市民を防護する為めに設けらるゝ簡単な防護室の一種である之にも亦公共用と家庭用等とあるが共に有事に際し臨時に設けらるゝもので其設備も簡易である代りに毒瓦斯其他に対する防護が不十分の点はあるが……支那軍が今次事変に於て至る処多数の防空壕を設け我荒鷲の猛襲を避くべく企図したことも誠に適切である、殊に市民の大部が防空抗力に薄弱な木造都市に住み併も家庭防火群を編成して空襲時敢然其家庭で戦って防空の完璧を期さねばならぬ我国の現況に於ては防空壕築設要領の普及徹底が極めて緊要なることを痛感する。」(19ページ)

第2節 防空壕の作り方

「之を一口で言へば坐るか腰掛けて居られる程の深さに穴を掘り、上部を雨戸や板なぞで覆ひ其の上に掘った土を1尺5寸か2尺程の高さに積めばよいのである。」(19ページ)

「広さは防空壕を継続して利用する時間が長いことはないと思はるゝから大して余裕を採る必要もなかるべく7,8人の家族なれば畳1枚程の広さで充分であらう。」(19ページ)7,8人で1畳!!!??

「50瓩弾1発で同時に2個の防空壕をやられぬ為には焼く10米離す必要がある。」(19ページ)

文章とは異なり、付図はかなりしっかりしたものをあげている。[1]

III 防空壕政策の本格化

1)防護室と防空壕の併存

1939年5月25日内務省計画局「極秘 国民防空強化促進計画要綱 防空緊急方策 防空指導一般要領」(国立公文書館、「防空関係資料・防空ニ関スル件(二)」)

「防空緊急方策」

「二、 防空施設ノ整備充実」「就中我国都市構築ノ現状ニ鑑ミ防火施設ノ整備ハ焦眉ノ急務ナリトス」「(六)防護施設 (1)建築物ノ防空的構造化 (2)公共防護室及自家用防護室ノ設置 (3)地下道ノ新設 (4)架空電線路ノ整理竝ニ地下化 (5)重要施設ノ防護 (6)防護上必要ナル空地ノ保存 (7)防護上必要ナル工作器具材料ノ整備 (8)防空壕築造方法ノ指導 (七)防毒施設」(5ページ)

「十二、避難ニ付テハ原則トシテ自衛防空ノ精神ニ依リ建物毎ニ護ルベク、老幼者、病者或ハ空襲ニ依ル破壊、火災、被毒等ノ為已ムヲ得ズ避難スル者及屋外通行者等ノ避難ニ関シテハ一定ノ計画ノ下ニ統制ヲ保チ混乱ヲ来サザル様指導セザルベカラズ

2)「待避」の明確化

内務省計画局「退去、避難及待避指導要領」(1940年12月3日付内務次官発内閣書記官長宛「退去、避難及待避指導要領ニ関スル件」付属文書)(国立公文書館、「防空関係資料・防空ニ関スル件(二)」)

第一 総則

「一、 退去、避難及待避ハ主トシテ防空上ノ重要地域ニ於テ之ヲ行フコト

二、 退去又ハ避難トハ危険ノ場所ヨリ退去シテ生命身体等ニ対スル危難ヲ避クルヲ謂ヒ、待避トハ自己ノ持場ヲ守リツツ生命身体等ニ対スル危難ヲ避クルヲ謂フコト

「二、 待避ノ方法

(一) 待避ハ防火其ノ他ノ積極的防護活動ニ便ナル様最寄ノ待避施設ニ之ヲ行フコト」

1940年12月3日付内務省計画局長・内務省警保局長発各庁府県長官(東京府知事ヲ除ク)宛「退去、避難及待避指導要領ニ関スル件」(国立公文書館、「防空関係資料・防空ニ関スル件(二)」)

「別表第一

 秘 取扱注意(本表ハ関係市町村長、警察署長以外ニ之ヲ示サザルコト)

3)最初の防空壕建設指導政策 待避施設としての防空壕[2]

内務省計画局

「部外秘

昭和一五年十二月設定

   防空壕構築指導要領」(12月24日付内務次官発内閣書記官長宛「防空壕構築指導要領ニ関スル件」付属文書)(国立公文書館、「防空関係資料・防空ニ関スル件(二)」)

「本書ハ家屋外空地ニ構築スル応急的待避施設タル防空壕ノ構築指導要領ヲ定メタルモノトス」

「 第一 総則

一、 防空壕ハ投下弾ノ破裂ニ基ク弾片、破片、爆風等ニ因ル危害更ニ出来得レバ毒瓦斯ニ因ル危害ヲ防止スルコトニ留意シテ構築スルコト

二、 防空壕ハ応急的待避施設ナルモ防護活動ニ便ナル如ク其ノ位置、規模、構造等ヲ決定スルコト

三、 防空壕ハ成ルベク各戸ニ其ノ敷地内空地ニ設クルヲ原則トスルコト、但シ敷地ノ状況ニ依リテハ近隣共同シテ設クルモ妨ゲナキコト

 敷地内空地ニ防空壕ヲ構築シ得ザルトキハ管理者ノ承認ヲ受ケ公共用地其ノ他ニ之ヲ設クルヲ得ルコト

四、 防空壕ハ成ルベク小規模ノモノヲ分散シテ設クルコト、大規模ノモノニ在リテモ二十人程度ヲ限度トスルコト」

二、防空壕ハ地下式ヲ原則トスルコト、湧水其ノ他特別ノ事情アル場合ニ於テモ成ルベク半地下式ト為シ已ムヲ得ザル場合ニ限リ地上式ト為スコト

4)政策における防空壕の基本的立場の確立
  一時的な待避のための応急的なもの、簡単に作ることが出来る

大日本防空協会『防空教材 第一輯 防空一般』(1941年4月、内務省主催の庁府県警防主任者講習会の速記録。主として地方防空学校の教育資料として編纂発行)(1942年)

春藤真三(内務省計画局第一技術課長)「防空壕の構築要領」

「「防空壕構築指導要領」に言って居ります所の防空壕は極めて簡易なものでありますが、防空壕の構造如何に依りまして、即ち鉄筋コンクリート類を使ふといふことに致しましても、之を永久的な、而も階段的な構造にすることに依って、防護室と区別のつかないものになって来るのであります。併し此の指導要領に唱ってゐますものは直撃弾には全然効果のないものでありまして、焼夷弾、高射砲弾の破片、又は砲弾、爆弾の為に家屋なり、或は工作物が破壊せられまして生ずる所の破片竝に砲弾、爆弾に起因する所の爆風圧に対して効力を持って居ります。」(75ページ)

「此処で申上げます所の防空壕は飽くまで応急的な待避施設でありまして、此の中に逃げ隠れるものではないのであります。」(76ページ)

「技術者でない素人が、此の指導要領に依りまして、防空壕が造られるといふことを狙ったのであります。」(76ページ)

1941年8月9日 東京市「町会用防空壕助成規程」 簡易かつ恒久的な施設で300戸を一単位とし、収容人員20名位のものに一戸につき500円まで費用の2分の1を町会に助成する。

9月16日 恒久的なものはなかなかできないので、応急的なもののみ設置を認め、300までの築造費は全額補助、恒久的な簡易防空壕にあっては資材整備費および労力費の合計を築造費としてその設立に対する補助金の助成をなるべく多く支払うように取計らった(東京都戦災誌170頁)(意味不明?青木)

一部にはコンクリート造りの堅牢なものもあったが、それは見本的な標準を示すもので、「公共待避所の多くは素掘りで周囲を高くして爆風除けにしたようなもので、勿論掩蓋などのないものであった。」(東京都戦災誌171頁)(消防隊の活躍140ページも)

1941年9月3日『週報』256号「家庭防空の手引」 一般向け解説

4防空壕について

「必要なところには、必要になれば防空壕を作らねばなりませんが、辺鄙な農山漁村とか、爆撃される虞れの極めて少いところには作る必要はありません。いや、むしろ資材を必要な方面に廻すために遠慮していたゞかねばなりません。必要なところへは、作ることが必要になって来れば当局から指示がある筈ですから、慌てる必要はありません。そこでこゝには単に応急の防空壕の作り方を述べるに止めます。」(40ページ)

 防空壕はなぜ作るか

「わが国の防空壕は、積極的に防空活動をするための待避所であって、敵の飛行機が飛び去って終ふまで入ってゐる消極的な避難所ではありません。」(40ページ)

「防空壕とは、爆弾が落とされた場合一時その破片を避け、次ぎの瞬間には壕を飛出して勇敢に焼夷弾防火に突進しようといふためのものです。」(40〜41ページ)

 応急防空壕の作り方

開放型・掩蔽型、地上式・地下式・半地下式

「どの型式がよいかといへば勿論開放型より掩蔽型、地上式より地下式がよいといはねばなりません。

(一)しかし、実際問題としては、平時から各戸に掩蔽型地下式の防空壕を作って置くわけにも行きますまいから、国際情勢が緊迫して本当に空襲の危険が切迫して来た場合、防空壕の用意がなかったら、まづ身体の入るだけの穴をほればよろしい。之なら誰にでも雑作なく出来るでせう。簡単ながらこれでも開放型の防空壕の一つです。穴を掘っただけの開放型の防空壕でも、入ってゐるのとゐないのとでは大変な異ひであることは前に述べた通りです。」(41ページ)

「応急の場合の第二段の処置としては、この穴の上に戸板か何かを二枚ばかり置いてその上に土を盛ります。これで一先づ建物の破片とか、高射砲の断片とか、或ひは雨や雪なども妨げるわけで、これで先づ応急の掩蔽型地下式防空壕ができるわけです。」(41ページ)

図あり

5)「空襲、恐れるに足らず」論からの防空壕消極論

難波三十四(陸軍中佐)「防空必勝対策」(『都市公論』1941.9)難波は41年『現時局下の防空?「時局防空必携」の解説』著者)

「家庭用の防空壕は、当局から指示のあるのを待って作ればよいのです。慌てて作る必要はありません。公共用防空壕は当局から指示のあった市で作り、他の市町村では作る必要はありません。

 これも防空の重点主義です。必要のないところまで無制限に作り出すと必要な方面へ資材が廻らなくなります。

 こゝで現在一部の都市で作ってゐる公共用防空壕とはどんなものかいふことを説明しておきませう。

 公共用防空壕とは、全然防空活動のできない老人や子供、それに病人や不具者、妊婦などを収容する避難所です。いやしくも防空活動のできる人は、この公共防空壕に入ることは絶対に許されません。これらの人々はすべて焼夷弾防火に活動するために、持場々々で待機しなくてはなりません。勿論これらの人々も無防禦で待機するのではなく、イザといふ場合には家庭用の防空壕なり待避所で待機するの」(13ページ)「ですが、この家庭用防空壕といふのは「家庭防空の手引」で述べたやうに、飽くまで防火活動のための待機所であって、避難所ではありません。家庭用防空壕は、この意味から、防火活動に便利なやうに小型のものを分散して作ることになってゐますから、比較的簡単に出来ます。」(14ページ)

12月8日開戦後、防空実施発令、市民心得通達

防空実施下の市民心得 防衛局

家庭では「(5)屋内待避所や簡易防空壕は、命令がある迄作らないでよい。」(東京都戦災誌156頁)

6)隘路としての資材不足

吉田勘右衛門「町内会と防空壕」(『都市公論』1942.1)

「防空壕の築造にしても昨年七月迄は簡易防空施設の一つとして、当局は頻りに急速造るべく講演に講演に冊子に勧誘的であったが、八月に至り俄然従来の方針を一擲して防空壕の必要なしと断然と言明さるゝに至りたり。之れ資源の関係からして、木材もなし釘もなし「セメント」もなく工事の仕様がないから当然の事とは云へ市民も迷はざるを得ぬ。」(120頁)

「我が国の木造家屋にては空襲中と雖も焼夷弾の投下に逢へば直に消火に努めざれば焼野原と化するは間違なく、如何に危険を犯しても消火に努めざるべからず。斯くの如き国情に於て仮りに防空壕を築造したとしても之れに待避を容さず。第一線の将兵の活動を思ひ、附近の掩護物を頼りに勇躍奮闘するの外途はないのではないかと思はれる。当局にも亦此の意向の下に防空壕無用論に傾いたのではなからうか。」(121ページ)

「東京市防空局では昨年八月都下各町内会へ防空壕工築費の補助として一ヶ所金二百五十円を補助金交付の通牒を発したのであったが、仮り防空壕の工築は資材の関係で実現せず、其の内不要論が湧き起り殆ど半中止の形となってゐる。」(121ページ)

IV 待避所設置の指導
   対米開戦・ドゥーリトル空襲・ミッドウェー敗戦の衝撃

1)「待避所」名称の決定、設置の徹底・急速計画化

1942年7月3日付内務次官発内閣書記官長宛「空襲時ノ待避施設ニ関スル件」

7月3日付内務次官発各庁府県長官宛「空襲時ノ待避施設ニ関スル件」(国立公文書館、「防空関係資料・防空ニ関スル件(三)」)

内務省防空局「防空待避施設指導要領」の通知、「指導訓練ノ徹底ヲ期シ防空上万遺憾ナキヲ期セラレ度」「追而昭和十五年十二月二十四日付計第六三八〇号内務省計画局通牒ニ依ル防空壕構築指導要領ハ防空待避施設指導要領ノ一部トシテ従前通存続スルモノニ付為念」

「防空待避施設ノ設置ニ付テハ直ニ適切ナル計画ヲ樹立シ之ニ基キ指導教育ノ徹底ヲ図リ速ニ実施ニ着手セシメテ必ズ本年八月末日迄ニ之ガ整備ヲ完了スルコトヲ目途トスルコト」

「防空待避施設ノ設置ニ付テハ特ニ左ノ事項ニ留意スルコト

(一) 防空待避施設ノ整備ヲ慫慂スルニ当リテハ一般ニ対シ左ノ趣旨ヲ充分徹底セシメ人心ノ不安動揺ヲ来サザル様努ムルコト

(イ) 今般防空待避施設ヲ設ケシムルコトト為リタルハ情勢ニ特別ノ変化アリタルガ為ニ在ラズシテ一層自衛防空ノ成果ヲ昂揚セシメンガ為ノ措置ナルコト

(ロ) 都市退去等ノ消極的逃避的ナル機運ヲ絶対ニ醸成セシメズ此ノ際益々積極的防空精神ヲ強化スルコト

「(五)防空待避施設ノ一般的呼称ハ「防空待避所」又は「待避所」トスルコト」

2)自発性と秘密 待避が避難へ連動することへの懸念

7月9日付内務省防空局長発各庁府県長官宛「待避所ノ設置ニ関スル件」

「二 待避所ノ設置ハ強制ニ渉ルコトヲ絶対ニ避クルコトトシ市民ニ其ノ必要性ヲ納得セシメ自発的ニ設置セシムル様指導スルコト」

「四 待避ノ必要性ヲ強調スル余リ逃避的観念ヲ生ゼシメザル様厳に留意シ焼夷弾落下等ノ場合ハ直ニ出動シテ自衛防空ニ任ズルノ精神ヲ昂揚セシメ且之ガ訓練ヲ行フコト」

「六 本件ハ対外的ニ無用ノ刺激ヲ生ズルコトヲ避クル為中央ノ発表以外ハ一切新聞及雑誌ノ記事トシテハ取扱ハシザル方針ナルヲ以テ趣旨ノ徹底ハ隣保常会等ヲ通シテ之ヲ行フコト。」

内務省防空局『防空待避施設指導要領』(小冊子版)

四、待避施設ノ構築ニ当リテハ形式ニ拘泥セズ適当ナル既存施設手持材料等ノ利用ニ努ムルコト

一、位置

「ハ 雨水ノ流入、夜間又ハ厳寒時ノ使用、応急防火等ノ見地ヨリ概ネ屋内地下ニ設クルヲ可トスルコト」

3)強制設置へ

1943年7月21日『週報』353号

「昭和十八年改訂 時局防空必携」(改訂版では空襲の可能性や規模について大幅な見直しをした)

 8待避所

「当局より指示された所では必ず造る。

 木造住宅に設けるものは、出易い床下の地下か屋外の地下がよい。やむを得ないときは、効力は少いが地上か床上に造る。床上に造る場合、日常生活に差支へがあるときは、警戒警報発令と同時に造れるやう準備して置く。」(6ページ)

解説(情報局週報課で編集)

「家庭の待避所は、防空従事者が一時弾片や爆風による無益な死傷を避け、防空活動に備へて待機する場所である。これを」(6ページ)「造る必要のある所は当局で指示する。従って指示された所では必ず造って置かねばならない。」(7ページ)

屋外の待避壕(7ページの図):0.8×1メートル深さ0.9メートル階段付き、フタはたたみ、4人が膝を抱えて座り込む

床下の待避壕(8ページの図):深さ1メートル

「なほ待避所は老人子供等の避難する場所にもなるが、家族の多い家庭では一ヶ所に大勢集ることは万一の場合に被害が大きくなるから、一ヶ所五人程度にし、且つなるべく分散して造ることが望ましい。」(8ページ)

「必ず造れ防空待避所」(『都市公論』1943.7)

「内務省防空局では昨年七月「防空待避施設指導要領」を設定して一般家庭、工場等で自家用として設ける待避所は、これに依らせることとし指導して来たが、現在のところまだ十分とはいへない、まだ申しわけ的気休め程度の有様であるところから、この際自発的な施設勧奨では手緩いといふこととなり、断乎強制的に全国至るところに国民一人残らず収容し得るやう急設させることに決定し、」(52〜53ページ)「しかもすべては経費をかけずに新しい資材は一片をも使用させぬといふ、わが国防空陣確立上画期的方針書を完成、内務省防空局では軍その他関係方面との打合せを終へて六月二十六日次官通牒をもって各地方長官宛指示し」「従って住宅、店舗等一般木造物の待避所は「概ね屋内床下を可とす」といふ従来の方針は改められた」(53ページ)

宮地直邦(内務省防空局指導課内務事務官)「準備万全・敵機を待つ」(『都市公論』1943.8)(八月十一日午後六時三十分より放送せられたる其の要旨)

「次に特定の都市では家庭に必ず待避所を造ることになって居ります。家庭の待避所と云ふのは、防空従事者が一時弾片や爆風に依る無益な死傷を避けて、来るべき防空活動に備へ待機する場所であります。之が同時に子供や老人等防空活動の出来ない者にとって避難場所となるのは勿論です。」(16頁)

「結果として家の密集地域では床下地下が多くなり、郊外では屋外地下が多くなるものと思ってゐます。」「効力は劣りますが地上に土嚢を積むなり、部屋の中に本棚や畳等を利用して之を造るより外はありません。それで地下を掘る場合は姿勢にもよりますが体が隠れる程度掘れば充分です。」(17頁)

「尚隣組として今回の必携改訂に於て特に変ったのは隣組の防護監視員の為に必ず待避所を造る事であります。」(17ページ)

老人や子供は「隣組単位で信頼の出来る人に託して安全な所へ一時誘導するのが適当であると思ひます。」(20ページ) (老幼者の避難の場所に共用することの問題)

谷川昇東京都防衛局長「数を申し上げる自由は持たないが、1ヶ月以内に予定通り掘りました。各家庭も一斉にやるし、公共のも、学生諸君の熱心な勤労奉仕で、成績は非常によかった。」(『都政週報』1943.9.25座談会「皇都防空の用意はよいか」5ページ)

V 横穴式防空壕の建設

1)東京都、横穴式防空壕建設を推進 1943年後半〜

東京都、横穴防空壕の設置を奨励(費用半額を負担)(従来の素掘りの壕(待避所)ではどうにもならぬことが欧州の体験で判る)(消防隊の活躍500ページ)

『都政週報』1943.10.9「大達長官横穴式待避壕視察」

「敵機空襲に備へて都では家庭及び公共待避壕を急設したが、更にこの拡充強化を図る為都内崖地の地形を利用して「横穴式待避壕」を掘り、空襲時の待避と避難に使用すると共に、必要物資の貯蔵所にも活用させようと、都防衛局では今迄試験的に都内数ヶ所に築造中であったが、更に積極的に都内至る処に掘ることとなったので九月十七日午前中大達都長官、谷川防衛局長が出来上がった試掘横穴を観察」(13ページ)

『都政週報』1943.10.16「横穴式待避壕?場所の選定と掘り方?」

「今帝都旧市部の丘陵地について概略の調査をした結果によると、有効に活用し得る崖地々帯は麹町、芝、麻布、小石川、品川、大森、渋谷、王子、板橋等と殆ど全区域に亘り約数百ヶ所あり」(5ページ)

1944年1月27日 東京都告示第395号「東京都横穴式防空壕助成規程」(41.8東京市町会用防空壕助成規程の改正) 町会または隣組、築造費の2分の1以内、一個につき300円を超えないこと、(東京都戦災誌173ページ)

7月25日 東京都告示第828号 東京都防空壕建設事務所左ノ通設置ス (世田谷方面防空壕建設事務所、淀橋同、大森同、芝同、小石川同、荒川同(豊島区西巣鴨2の19)、板橋同、目黒同) (東京都戦災誌173ページ)

『田園調布会町会回報』1944年8月2日「横穴式防空壕設置候補地」

「横穴式防空壕の候補地を東京都が求めて居ります。」(江波戸昭『戦時生活と隣組回覧板』150ページ)

「矢島家戦時隣組日誌」(馬込西一丁目町会第二組)1944年11月9日

「隣組横穴式防空壕掘(午前八時ヨリ午後四時半迄)」(江波戸昭『戦時生活と隣組回覧板』377ページ)

『田園調布会町会回報』1944年12月27日「防空上の諸注意事項」

「横穴式防空壕付近の隣組は大いに利用して下さい。但し防空従事者は使用できません。」(江波戸昭『戦時生活と隣組回覧板』169ページ)

上野の山の横穴式防空壕

牧田綾子(15)「小さな生きものの目」

「上野の博物館の建物の中で藤倉ゴムが防毒面を製造開始して、私達はここで検査係をすることになった。」「作業中、B29来襲のサイレンが鳴るたびに、クラスメートと一緒に上野の山に掘られた横穴の防空壕へ避難させられた。どこまで奥深いのか、穴の行き止まりはわからぬ気味の悪いところで、ジトジトと水が湧いていた。私達はここへ入るたびに、「洞穴探検」だとふざけあっていた。」(『東京大空襲・戦災誌』第二巻85〜86ページ)

根津山のコンクリート製防空壕

2)国では

1944年10月9日 内務大臣大達茂雄「防空壕ノ整備ニ関スル請願ノ件」(国立公文書館、『公文雑纂』昭和十九年第七二巻「帝国議会四・請願二」)

「防空壕築設ノ要アルハ政府ニ於テモ夙ニ之ヲ認メ従来ヨリ着々整備シ来リタル処ナルモ特ニ本年度ニ於テハ防空壕ノ規格ヲ決定指示スルト共ニ京浜、中京、阪神、北九州ノ四大重要地区ニ横穴式及掩蓋式防空壕ヲ急速ニ整備シツツアリ今後二於テモ資材、国庫、財政等ノ許ス限リ之ガ増強助成ヲ為サムトス尚無掩蓋又ハ狭路ニ設置シアルモノニ付テハ既定ノ規格ニ依リ之ガ整理ヲ為サシムル等今後ノ指導ニ付遺憾ナキヲ期シツヽアリ」

横穴式以外に防空壕という概念があったのかどうか?

宮城(紅葉山)や中央官庁の防空壕

3)一般待避所も徹底的増強

11月11日 各地方長官宛防空総本部次長「防空待避施設緊急整備増強ニ関スル件」(『内務厚生時報』1944.12)

「防空待避施設ノ整備ニ関シテハ屡次ノ通牒ニ基キ一応ハ整備セラレツツアルモ之ガ整備状況ト現下ノ防空情勢ニ鑑ミ更ニ徹底的増強ヲ図ルノ要緊切ナルモノアリ」

「期間ヲ定メ一斉ニ公共待避所ノ整備増強ヲナシ其ノ万全ヲ期スルコト」

「本要綱到達後一週間以内ニ所要ノ準備ヲ終ヘ爾後五日以内ニ整備ヲ完了スルコト、但シ遅クトモ十一月末日迄ニ完了ヲナスコト」(以上、18頁)

「掩蓋用木材ハ並木樹、街路樹(防火上必要ナルモノヲ除ク)、公園ノ樹木ヲ伐採シ又家庭ノ庭木、手持材ノ供出ヲ求ムル等、特別ノ措置ヲ講ジ之ガ確保ニ努メ尚不足スルモノニ付テハ差当リ無蓋ノマヽトスルコト」

「家庭待避所ニ付テモ此ノ際警察署長及市区町村長ノ指示ニ依リ隣保班長及防火群長ノ指導ノ下ニ各家庭ニ於テ整備補修セシムルコト」(以上、19ページ)

おわりに

・防空施策中の防護施設の政策的流れは

 防護室→防空壕(40.12)→待避所(42.7)(→横穴式防空壕(1943後半))と変転した。(問題は資材のネックと空襲への恐怖の希釈化の必要)

・罹災者の多くが「防空壕」と回想しているものは政策的には「待避所」とされ、防空・消火活動のために一時的に待機することを目的としたものであり、元々焼夷弾などからの生命を守るものとは位置づけられていなかった。

・「退去」「避難」についての方針化は出来なかったとみるべきではないか。

参考 青木哲夫論文収録予定書籍の計画書

Inge Marszolek/Marc Buggeln(編)
防空壕−−都市の記憶のなかの夢と悪夢

序論(Inge Marszolek, Marc Buggeln)
歴史とトポグラフィー
 1)ケルンの事例(Elke Purpus)
 2)ブレーメンの事例(Inge Marszolek)
 3)ハンブルクの事例(Malte Thiessen)
 4)海底シェルター「ヴァレンタイン」:建設現場と収容所(Marc Buggeln)
 5)危険な隣人−−「ヴァレンタイン」と隣接村落(Silke Betscher)
社会の諸場面
 1)ホテル・ホームレスの住居・収蔵所−−戦後ドイツにおける防空壕の利用(Jan
Hendrik Friedrichs)
 2)魅惑−−旅行者、冒険、テクノ・パーティ(Nicole Mehring)
冷戦
 1)アメリカ合衆国におけるシェルター(Kenneth Rose)
 2)連邦政府の核シェルター(Stefanie Jacobs)
 3)ドイツ民主共和国の影の場所(Paul Bergner)
メディアと博物館における表象
 1)大英帝国戦争博物館におけるチャーチルのシェルター(Phil Reed)
 2)ラ・クーポール*(Yves Le Maner)
 *ナチによって北フランスに建造された大規模な防空壕、現在は博物館に。
 3)ハッティンゲンにおける「ヘンリヒスヒュッテ」防空トンネル(Robert Laube)
 4)景観における軍事施設の解釈戦略(Gerold Kunz)
 5)他者の場所としての防空壕??歴史的建造物と映画(Silke Wenk)
建築と記憶
 1)場所と記憶−−可視性と不可視性についての省察(Habbo Knoch)
 2)具体性と破滅の価値づけ−−第三帝国と戦後ドイツにおける物質的なものの
意義
(Christian Fuhrmeister)


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[1]佐竹保治郎「防空建築と土木の参考」


[2]



[3]『豊島区史』通史編二(矢島勝昭氏画)


討論概要

意見 待避は軍隊用語で、戦闘行動の一つ。避難、疎開とはちがう。国際法上では、防守都市の場合、軍司令官は一般文民を退去・避難させなければいけない義務がある。これが名古屋空襲民間人戦傷者補償訴訟の時、問題になったとおもうが、日本の軍司令官は、この義務をどう考えていたのか。戦力にならない者の避難は考えていたが、総力戦では一億が戦力、戦闘要員と考えていた。この論理の延長上に(受忍論)があるのではないか。防空設備の最初は防護室ということだが、空襲被害を毒ガス中心に考えていた節がある。荒木陸相の時1935年ごろ、対ソ戦が近い、沿海州からソ連の重爆撃機が来て爆撃すると考え、アメリカの爆撃は考えていなかった。当時、防空思想涵養のための映画会を小学校校庭などでやっていたが、焼夷弾攻撃より毒ガス攻撃を想定していた。学校教練でも簡易防毒マスクを作らされて、持たされた。1935年にはエチオピアでは毒ガスが使われたことも念頭にあったかもしれない。1936年のゲルニカ空襲では本格的に焼夷弾つかわれたが、ドイツ空軍は焼夷弾の実験をしてその威力を確認していた。日本軍の担当者は焼夷弾を想定しはじめていたが、一般民衆レベルでは問題にならなかった。東京空襲の戦災犠牲者遺族の訴訟でも、待避と避難の区別は重要になる。軍属は拡大解釈され、防空の講習を受けた者まで広げている。防空壕が一般の家庭まで普及するのは、太平洋戦争の末期であるが、気休め程度であった。

質問 関東防空大演習がおこなわれ、防護団が結成される経緯と、防空壕は結び付かないのか。

報告者答 警防団への流れよりも、家庭防火群から隣組防空群の流れの方が直接つながる。警防団は逃げないのが当然である。ドイツでは一般の人は防護室に入っていることが紹介されるが、日本では一般の人には自衛消火が強調される。

質問 地下鉄を避難場所に位置付けていないのか。

報告者答 使える、使えない、逃げさせないなどの議論があって、分かれている。実際には使っていない。

質問 百貨店の地下を避難場所に位置付けることはないのか。

報告者答 大きな建物だと学校になる。日本橋区にはビルの地下が結構あって、明治座はだめだったが、助かったという話が多くある。

意見 都市防空計画がきちっとなかった。

意見 工場やデパートの防空組織の研究があった。

報告者 それは特設防護団で、一般民衆に開放する話ではない。

意見 防火改修規則では不特定多数が集まるところでは、防災施設を作れというのがある。

報告者 防火改修規則で防護室を作れというのがあるが、それは新築・増築の場合だけで、既存のものを直すのは後で出来るが、それも住宅の場合ではないか。

意見 人をどう動かすかということと、環境をどう作るかはリンクしている。防空に動員するためにも、待避施設を整備する必要があるという議論がある。

報告者 初期は総花的ではあるが、それぞれの言われたことが実現すれば、違ったかもしれないが、実際には掛け声だけに終わって、施策されたものは少ない。退去者の調査はかなり前に調査しているが、継続しないで消えて、改めて1944年に疎開対象者の調査をしている。疎開も防火改修も自力救済だから、限界が出てくる。

質問 防空壕政策の立案の主体は誰なのか。内務省なのか。軍とか大学医学部とか都市計画の研究者はどう関わったのか。時期によって変わるのか。地域差はどうなのか。

報告者答 個々の軍人が書いているのはわかるが、軍そのものがどういう方針を持っていたかは、わからない。

意見 日本陸軍の場合は、戦略爆撃という発想が乏しく、地上戦への協力が主だった。戦略爆撃は海軍が発展させていった。陸軍は第1次大戦で青島爆撃をし、満州事変で錦州爆撃をするが、小規模だった。

報告者答 防空演習でも、ほとんど飛行機も飛ばさないで小規模だった。軍は民防空にきちんと協力していない。内務省だけで政策化している。

質問 佐竹は建築に熱心だった。佐竹や難波は、軍の中でどういう位置にあったのか。

報告者答 難波は軍のスポークスマンで、わかりやすく煽動する役割だった。

意見 防空緑地論から見ると、軍は民防空ではなく、高射砲陣地の用地の確保に関心があった。

報告者 内務省も逆に軍を利用している。

意見 科学者は基礎研究に動機があった。防空研究所の紀要の第1号に中沢が書いている。

質問 防空壕は効果があったのか。

報告者答 コンクリート製の頑丈で大規模なものを作ったところでは効果があった。そこでも、東京大空襲の場合は、火が入ってきたのを、どうにか消して、九死に一生をえたというのが多い。家庭用のは役に立たなかった。

質問 500キロ爆弾が直撃した場合に堪えられる防空壕はあったのか。

報告者答 最初の防護室の構想は、そういうのにも堪えられるものだった。

意見 普通のコンクリートではだめで、ペトンで作らないと無理。

意見 経済的階層や地域差によって安全性に落差が出来た。

質問 日本は爆撃機が飛んでくる場合、何時間前ぐらいから予知していたのか。

意見 かつお釣り船に初歩的なレーダーを積んで、サイパンとのあいだに行って観測し、無線で知らせていた。武装していないから3分2ぐらい戦死している。2、3時間前にはわかった。

報告者 爆撃か偵察か、わからなかった。爆撃がはじまってから、空襲警報が出されることが多い。

意見 1943年に避難が出てくるが、同時に防空空地にも避難の言葉が入ってくる。

報告者 老人、幼児、妊婦、病人が避難の対象なので、それ以前と同じである。しかも、退去が計画化されない。 退去は事前で、避難は空襲の時である。退去計画が疎開になったわけでもない。

意見 横穴式の防空壕は効果があった。

意見 横穴式の防空壕は山の手にしかない。

報告者 横穴式の防空壕は戦後あとまで残っていた。

(文責 山辺昌彦)

今後の予定

第9回研究会

日時 2007年4月14日 14:00〜17:00
場所 東京大空襲・戦災資料センター
報告者 松井かおる(江戸東京博物館学芸員)
報告題 『記録−少女たちの勤労動員』を読む
※当日は、著者「戦時下勤労動員少女の会」の方々も参加してくださる予定です。