第7回研究会報告
日時 2007年1月28日(日)14:00〜18:00
場所 政治経済研究所会議室
報告題 戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定過程について−−立法過程にみる援護理念の創出
報告者 植野真澄
出席者 青木哲夫 一瀬敬一郎 植野真澄 大岡聡 大竹正春 鬼嶋淳 北河賢三 土岐島雄 山辺昌彦 山本唯人 吉田裕(50音順)
報告要旨
はじめに
1)問題の所在
なぜ「援護」という形の法制度が形成されたのか
2)先行研究の状況
厚生省による位置づけ→戦争犠牲者に対する戦後初の補償法、「社会保障」の見地から実情に即した案を提出したのが当時の厚生省、という見解
「遺族等援護法は、国家補償の精神に基づき、戦傷病者及び戦没者遺族等に対し障害年金、遺族年金等の支給を行うことにより、これらの者を援護することを目的に制定されたもので、戦後初めて戦没者遺族等に対し補償が行われたという意味で画期的な意義を持つもの」(厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会『援護50年史』1998年、3頁)
・荒木誠之(1982)
「援護法は戦争犠牲者に対して、一般的な社会保障を前提として、特別な要保障性に対応した生活保障給付を提供するもの」「社会保障法の特別法的地位を占める」(243頁)
・田中宏(1995)
「恩給法思想」ともいうべき国籍差別の問題の指摘。当時、援護の「無差別平等」を指摘した社会保障の専門家末高信に対する高い評価
・赤澤史朗(1993)
「末高の意見は例外であり、多くの意見はむしろ戦時補償を認める方向で立論」「民間人戦争犠牲者のうちどこまでを公務による死亡・傷病と認定するか、その範囲を争う形で論議されていくことに」「戦争による犠牲ということを、こうした国家による雇用や動員と切り離して最も広く捉えようとしていた末高信は、補償支払い一般を否定」
*「特別な要保障性」=国家との雇用関係の有無を基準に←援護法に対する数々の批判
3)本報告の課題と方法
援護法はどのような審議過程を経て成立したのか、同時代の援護認識をふまえ考察
→1949年の国会決議以降の援護法案の立法過程を一次資料等より検討
<時期区分> 敗戦〜援護法制定までの6期に区分→第2、3期の制度創案期に焦点
[1]占領下の軍事援護の廃止及び代替制度の創設(1945年8月〜1949年)
[2]戦争犠牲者対策の検討開始(1950年〜1951年8月)
[3]制度理念の検討(1951年9月〜11月)
[4]予算枠の調整(1951年12月〜1952年1月中旬)
[5]援護法案の具体化(1952年1月中旬〜1952年2月)
[6]国会での審議・修正(1952年3月〜4月)
[1]占領下の軍事援護の廃止及び代替制度の創設(1945年8月〜1949年)
・1945年11月24日 占領軍、軍人恩給の停止の指令(SCAPIN338)
・1945年12月1日 軍事保護院→保護院と医療局に分割
・1946年2月1日 軍人恩給の停止(勅令68)
・1946年2月8日 保護院の廃止
・1946年2月27日 社会救済に関する指令(SCAPIN775)→生活保護法(1946年9月公布、10月施行)制定に伴う軍事扶助法、戦時災害保護法の廃止
*占領初期は引揚者対策、戦災者の組織的な生活擁護運動(隠匿物資の摘発、配給物資の公平分配、食料確保、消費者組合、住居、生業資金、失業問題など)が中心に
*しかし、その一方で、抑留者や未帰還者の家族援護を目的とした法律や、児童や身体障害者を独自の対象とした法律が成立
・1947年12月 児童福祉法、未復員給与法
・1948年12月 身体障害者福祉法、特別未帰還者給与法、未復員給与法の療養給付開始、戦争犠牲者の援護問題が国会決議に〜戦没者の慰霊祭、遺族年金や弔慰金の支給、生活保護基準の引き上げ、育英制度、生業資金貸付、母子寮や授産所の設置等の生活保障要求
1949年5月 遺族援護に関する衆議院決議「戦死した者の多くは好んで戦場に出たものではない」、未亡人並びに戦没者遺族の福祉に関する参議院決議〜「戦歿者の多くは、志願して戦争に出たものではなく、軍国主義時代の徴兵制度により総動員されてその犠牲となったもの」
→すぐには法案化ならず・・・→生活保護法の改正などにより母子問題対策とする
[2]戦争犠牲者対策の検討開始(1950年〜1951年9月)
・1950年3月 衆議院内で戦死戦災死遺家族議員連盟発足
●1951年3月1日 厚生省内に遺族等の処遇に関する審議会設置
*当初の案は「遺族、留守家族及び元傷い軍人の処遇に関する審議会」
・同月15日 参院議員片岡文重(社・千葉)「戦争傷痍者の生活保障に関する質問主意書」提出→同月28日、政府「目下研究中」「身体障害者福祉法及生活保護法の内容充実により万全を期したい」と回答
●4月2日「傷病軍人、遺族、留守家族及び未帰還者の扶助に関する法律案骨子」
●この次の綴りに傷痍軍人とその家族のみを対象とした法律案
→軍事保護院時代の処遇に近い内容、遺家族とは切り離した傷痍軍人対策を検討
・1951年5月 参議院在外同胞引揚問題特別委員会、戦傷病者等対策審議会設置法案を内閣官房長官に協力依頼、翌月参院通過するも衆院で審議未了
内閣官房副長官菅野義丸「この法律案が関係方面の了承を得た」「しかしながら(中略)この指令(SCAPIN338?引用者註)があるかぎりにおいては、何ともいたし方がないのでございまして、この点は直接この指令に違反するというわけではございませんが、まずその指令の改変という方面に向うべき」「まずもって過去の戦争によっていろいろ犠牲を受けた人たちの処遇を改善することによって、再軍備を円滑に実行するのであろうというふうな、まことに当らざる疑惑を招きやすい」「不当に各国の疑惑を招くおそれはないかということを懸念」
松本善壽「より多くの国と講和をしなければならないというのが、われわれの最終的な目的であり、最後にはいわゆる全面講和をしなければならぬということが、偽らざるところの国民の叫びではないか」「かような見地に立ってこの設置法案をながめまする場合においては、ややその時期がどうかとも私ども判断に迷う」
千田正(無・岩手)「調査研究機関としてこの機関の設置を許すというのが、関係筋のいわゆる答えであった」(以上、1951年6月2日、10衆内閣20)
"There is no objection to the introduction in the Diet of the attached draft Bill for Establishment of Council on Measures for War Invalid etc."(Bill for Establishment of Council on Measures for War Invalid etc 1951年6月7日、ESS→GS、ESS(D)01679)
・7月4日 第3次吉田内閣改造(橋本龍伍厚相就任)
・7月18日 社会保障制度審議会に戦争犠牲者特別委員会設置(委員:山下義信、青柳一郎、川崎秀二、今井一男、原泰一、中山寿彦)
●1951年7月27日次官会議了解事項案として「傷病軍人及び軍人遺族等の援護要綱」
*傷痍軍人の家族、未帰還者は含まれず、1952年1月1日に法案施行を予定
[3]制度理念の検討(1951年9月〜1951年11月)
・9月8日 対日平和条約、日米安保条約調印→援護策の検討の具体化
・10月1日に参議院厚生委員会委員渡米、米厚生省長官へ遺家族援護の件を陳情(1952年1月9日、13参厚生3)
●10月3日 社会局長「戦傷病者及び戦没者遺族等の扶助に関する法律(仮称)骨子案」
●10月5日 更生課「行政機関等に身体障害者を一定の比率で雇用する義務を課することについて」
→身体障害者福祉法による国鉄、日本専売公社での一定比率の雇用義務付けを構想
●10月9日 社会局長「戦傷病者及び戦没者遺族等の扶助に関する法律(仮称)骨子案」→本案においては前記*印の事項は削除
・10月13日、白衣の傷痍軍人80名断食スト
●10月13日 厚相、閣議に「戦傷病者及び戦没者遺族等の処遇に関する打合会」設置の請議提出
・10月14日 参院厚生委員会遺族援護に関する小委員会、傷病兵ストを視察、ハンスト中止を求める。15日小委員会開催、
●同月16日、閣議決定により「戦傷病者及び戦没者遺族等の処遇に関する打合会」設置
→10月26日より11月28日まで6回の審議
・同月17日 参院厚生委員会での橋本厚相答弁
「基本的な問題、つまり傷痍者の恩給を復活するというラインにおいて、ただ昔のままの姿ではなくて、これを合理化した援護法の形にすると、そうして相当の程度に生活も保障し、又国としての傷痍軍人に対する労り、謝意というものも表明し得るような措置を講ずるという基本の方針をはっきり確定をいたしておる」(12参厚生3)
●同月18日「身体障害者福祉法改正案要綱」
年齢制限の撤廃、結核回復者(永久排菌者及び結核軽快者)の追加、身体障害者の雇用義務付け、ろうあ者更生施設の設置などをうたう
●同月26日 厚生省「戦傷病者及び戦没者遺族等の処遇に関する要綱案」
●同月31日 恩給局「旧軍人軍属の恩給善後措置に関する要綱」
旧来の軍人恩給に「改廃」を加えて復元
●同月2日 社会局「身体障害者福祉法案」
→第四章として「割当雇用」を設ける
●(年次不明)「身体障害者軍人軍属の福祉に関する法律案要綱」
・高橋案(=高橋等:遺族会顧問参院議員)(提出時期不明)
「本制度ハ戦没者遺族ニ対シ国家補償ノ観念ニ立脚シ物的援護ヲ与フルモノトス」
●1951年11月7日「戦没者遺族ニ対スル物的援護に関する法律案要綱案(高橋案)」に対する審議室の見解
→厚生省としては「国家補償の考え方をつらぬく」必要性も考えていた?
●同日「戦傷病者及び戦没者遺族等の扶助に関する法律(仮称)骨子案」
内容は10月9日の社会局長案を引き継ぐ
●1951年11月21日「戦傷病者、遺族等国家補償法(仮称)骨子案」
提出者不明、但し9日案の対象をより拡大(戦時災害を受けた徴用者、防空活動従事者を含む)
●1951年11月28日 打合会「答申案」
「基本的には二つの方針」=軍人恩給の復活か「生活保障の趣旨を加味した年金等を支給する特別の立法を行う」案
→「戦傷病者遺族等国家補償法(仮称)骨子」*旧軍人軍属に限定し、21日案に含まれていたそれ以外の対象者は本法に準じ旧令において措置することを提言
同日「打合会答申に対する厚生大臣の意見案」(同上)
[4]予算枠の調整(1951年12月〜1952年1月中旬)
池田勇人蔵相「傷痍軍人遺家族のおかたに対しましては、財政上できる限りの扶助を差し向けたい」「何分にも戦争犠牲者はいろんな種類がございまして」「我々と致しましてはできるだけ戦争犠牲を平等にしたい」「我々はこの戦争犠牲者に対しましてできるだけの措置は講じなければなりませんが、賠償を要求しております連合国のこれ又戦争犠牲者のことも考えて行かなければならんのであります、而もその戦争犠牲者の問題がやはり賠償のいわゆる根本になるわけでございますから、自分のところの戦争犠牲者だけを考えて、ほかは知らないのだというのもこれはいかない問題でございます」(12参予算21、1951年11月22日)
1951年12月29日 1952年度についての予算閣議「根本方針は意見が一致したが、予算について橋本厚相の525億円案と池田蔵相の280億円案が対立」「遺家族援護に関する閣僚小委員会を設けて明春早早から再検討」(『日本経済新聞』12月30日)
・日本の再軍備策を背景にした占領軍側の援護費の認可
"Japanese Government places great political importance on problem of assisting bereaved families and disabled veterans as a condition precedent to securing voluntary recruits for a defense force. Therefore, no exception by SCAP will be offered to reasonable provisions in JFY 52-53 Budget for assisting bereaved families and disabled veterans"(JFY 52-53 Budget for assistance to bereaved families of war dead & disabled ex-servicemen)(1952年1月9日、ESS、SCAP→DEPTAR WASH DC、ESS(F)02068)
・講和関係費と内政費間の調整
「政府は明年度予算案につき7、9両日の池田・マーカット会談で総司令部折衝を開始したが、予算案の根幹ともいうべき講和関係費につき総司令部はさきにドッジ氏が示唆したと伝えられている2500億円説を予想以上に強硬に主張していることから吉田首相が前例を破って内政費を極力圧縮して講和関係費に振り向けるため農林、厚生両省の予算組替えを指示した」(『読売新聞』1952年1月11日)
・閣議での橋本厚相の孤立、1月18日に大蔵省案に閣議決定、その後厚相辞任。翌日、軍人恩給調査会設置を閣議決定
・「お燈明代」発言に対する遺家族等からの反発
保利官房長官「遺家族援護については(中略)せめてお燈明代程度のものでも出したいと思う」(『朝日新聞』1月12日)→遺族会、傷痍軍人団体、留守家族団体等の陳情攻勢強まる
・橋本の「国家補償」に基づく理念へのこだわり、「民心の安定」「祖国の防衛」のため
「私の提案した案は単に予算の面からだけ見るならば、大蔵省案との相違は約80億円であって、財政的にも措置が可能でありまた心配されている賠償交渉への影響も五十歩百歩というべき」「しかし両案の重大な相違点は単なる金額の問題ではなく根本理念の問題にある」「戦死者の遺族にたいし単に“お燈明料”程度を支給しただけで、こと足れりとするような態度で、どうしてこんごの民生、民心を安定させ、祖国の防衛を全うすることができるであろうか」(『山陽新聞』1月19日)
[5]援護法案の具体化(1952年1月中旬〜2月)
1952年1月31日 「戦傷病者戦没者遺族等援護法(案)」
「この法律は、軍人軍属並びに未復員者及び未復員者に準ずべき者の公務上の負傷もしくは疾病又は死亡に関し」
吉武惠一(厚生大臣)「今度の予算措置について国家はこれは補償だとこう言いましても、御承知のように金額といたしましては国家補償というほどの実は予算でもございません」「差当り援護ということで出したわけ」(1952年2月7日、13参厚生4)
1952年2月12日 「戦傷病者戦没者遺族等援護法要綱案」閣議決定案
*打合会答申を引き継ぐ
1952年2月18日「戦傷病者戦没者遺族等援護法(案)」
「この法律は、軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、年金又は一時金等を支給すること等により、軍人軍属であった者又はこれらの遺族を援護することを目的とする」
*遺族の範囲〜<「公務による強制」に対する国家補償>という議論
山下義信「公務によりまして強制的に政府から徴募せられまして軍人と同様に自己の意思によらずして国家権力のために強制せられて軍務に服し、或いは軍務に準ずる業務に命令によって服し、而も直接戦闘的立場に置かれて身体生命を落としましたそれらの犠牲者ということになりますれば範囲は極めて明確」(1952年2月7日、13参厚生4)
原田好吉(熊本県天草郡楠浦村遺族後援会長)「従って国家総力によっての戦争でありますから」「空襲その他によって、戦争のために倒れた者は、その場所のいかんを問わず、これは明らかに私は戦死であり、戦傷であると名づけるのであります」「われわれ国民は、、この際こそみな一緒になって、この空白時代をつつしんで英霊にわびなくてはならない」(1952年3月26日、13衆厚生公聴会2)
*戦時体制下の社会保険制度の拡充と戦後への継続←→敗戦後の軍人恩給の停止
・船員保険法
陰山壽(全日本海員組合組合長)「船員が戦時において、いかに軍同様の困難な作戦業務に挺身してきたか」「船員保険の遺族年金の点に至っては、これは社会保険被保険者として、長きにわたってみずから零細な給料の中から保険料を醵出して、ようやくかち得た権利であり資格」「このような社会保険の年金をもっているということを理由として、遺族援護法の対象から除外して可なりとい説が、もしあるといたしますれば、私は問題の性質が根本的に違うという点について、御再考を願いたい」(1952年3月26日、13衆厚生公聴会2)
・占領期の文官恩給の継続
高橋等(民自・広島)「軍人軍属は、私は戦犯者じゃないと考えておる。そこで戦争前の文官も、総力戦となれば、すべて戦争には従事しただろう」「そこで、、文官の恩給を残して、軍人軍属の恩給を、約束したものをこの際葬り去るということについては、何か割切れぬものがある」(以上、1952年3月26日、13衆厚生公聴会2)
*対象者の国籍・戸籍
・沖縄、奄美大島、小笠原諸島(国籍も戸籍もあるが、事実法律が適用できない状態、但し内地在住の沖縄の戸籍所有者については国内法の戸籍法の適用ができるため、援護法の対象に)
西村健次郎(法務事務官)「この戸籍法は、御承知のように属人的な法律でございまして、属地法ではございませんので、当然沖縄に本籍を有している人にも適用がある」「平和条約発効後におきまして(略)戸籍法は、属人法でありますので、当然沖縄にも適用になる」「但し、沖縄に居住し、沖縄に本籍を有する人につきましては、戸籍事務を扱う戸籍法上の市町村長というものがございませんので、実際に戸籍法が沖縄の地域については働き得ない」「この遺家族援護法がどういう性格のものであるか、大別しまして属人法と属地法とわけた場合におきまして、事の性質上、私はおそらく属人法ではなかろうか」(以上、1952年4月2日、13衆厚生19)
・朝鮮人、台湾人(国籍は「はっきりしない」、戸籍はないので適用外)
苅田アサノ「それまではやはり都合のいいときだけは兵隊にひっぱり出すが、終戦になったら国籍がわからなくなったというような、こういうものは、私はいわゆる法律的な解釈ではないと思う」「朝鮮人も、同様に日本人として生活保護法の適用は受けさせるという御答弁があったように思う」「ですから法律的に今日朝鮮人あるいは台湾人にいたしまして、少なくとも朝鮮、台湾の籍に入っていない人たちは、日本人と考えてさしつかえない、そのような処遇が、この援護法におきましてもなされなければならない」「国際的な道義の問題」
西村健次郎「国籍の現われ方は、いろいろな面で、いわゆる内地人と違っておりますけれども、戸籍法については、これはもう適用がございません」(苅田アサノ「けっこうです」)
(以上、1952年4月2日、13衆厚生19)
[6]国会での審議・修正(1952年3月〜4月)
3月12日 政府、戦傷病者戦没者遺族等援護法案提出、衆院厚生委員会付託
4月3日 衆院厚生委員会、自由党より修正案(第一条に「国家補償の精神に基づき」を盛り込む)→可決
同日 衆院本会議、同修正案を可決→参院厚生委員会付託
4月15日 社会保障制度審議会戦争犠牲者特別委員会開催、厚相と協議、翌日「戦争遺家族等の援護に関する立法の件」を政府に申し入れ(国家権力によって動員され、同様な災害を蒙った人々にも拡大することと生活保護法による扶助との調整の必要がある)
4月24日 参院厚生委員会、遺族援護に関する小委員会による修正案(「遺族一時金」を「弔慰金」に名称変更、遺族一時金の受給対象を「法令に基いて強制動員を受けた者<徴用工、徴用船員、勤労報国隊員、女子挺身隊員、学徒報国隊員>」「もとの陸海軍の要請に基いて戦闘に参加した者<国民義勇隊を含む>」「特別未帰還者」に拡大するなどの修正)
4月25日 参院本会議、同修正案を可決
4月30日 法律127号として公布、4月1日に遡って施行
おわりに
・援護法制定に至る論議の経緯
第1期:引揚・復員者対策から未復員者・未帰還者の「留守家族」の生活支援、社会福祉の制度(児童福祉=孤児、身体障害者=傷痍者)
第2期:「傷痍者」→「傷病軍人」、「未亡人」→「軍人遺族」の生活支援
第3期:「戦傷病者」、「戦没者遺族」の「扶助」→「国家補償」
第4、5期:予算的裏づけ→「援護」に・・・遺族会等の当事者団体からの批判高まる
第6期:「国家補償」的要素を持たせる方向で調整
(小括)
・厚生省の「援護」認識
原案作成当初から傷痍軍人遺家族ともに「平等」な扱いとなるよう一制度としては「国家補償の考え方をつらぬく」必要を認識
→予算上、外交上の考慮の結果「援護」に
→しかし、最終的には「援護」制度の形を維持しながらも、「国家補償」の性質を文言上の調整で盛り込むことで関係団体からの批判を避ける
・「戦傷病者戦没者遺族等」の範囲
占領期に恩給が停止されていた旧軍人軍属の救済を念頭に法案が作成(=それ以外の公務員の占領期の既得権との整合性を考慮)
→その一方で占領期に既得権を持たない「国家権力によって動員され、同様な災害を蒙った人々」を旧軍人軍属に近い身分にあった人々まで含める調整が施される
(既発表論文)
論文[1]「戦後日本の傷痍軍人」川村邦光編『戦死者をめぐる宗教・文化の研究』2003年3月
論文[2]「白衣募金者一掃運動に見る傷痍軍人の戦後」『日本学報』22、2003年3月
論文[3]「占領下日本の再軍備反対論と傷痍軍人問題〜左派政党機関紙に見る白衣の傷痍軍人」『大原社会問題研究所雑誌』550・・551、2004年9・・10月合併号
論文[4]「<白衣募金者>とは誰か〜厚生省全国実態調査に見る傷痍軍人の戦後〜」『待兼山論叢』39、2005年12月
論文[5]「傷痍軍人・戦争未亡人・戦災孤児」『岩波講座アジア・太平洋戦争』第6巻、2006年4月
論文[6]「戦後日本の傷痍軍人問題−占領期の傷痍軍人援護をめぐって−」『民衆史研究』2006年5月
(一部を報告・報告要旨として公表しているもの)
*1「占領下日本の傷痍軍人問題〜占領軍の対応と傷痍軍人団体の動向を中心に〜」(日本史研究会近現代史部会、2003年10月30日)
*2「援護法案審議の中の傷痍軍人〜「援護」認識と戦争体験〜」『同時代史学会NewsLetter』4、2004年5月
*3「軍事援護の戦時と戦後〜青柳一郎の援護認識の展開」『史学雑誌』113-12、2004年12月
*4「戦後日本社会福祉史における戦争犠牲者援護問題」(社会事業史学会、2005年5月14日)
*5「戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定過程について」(社会事業史学会、2006年5月13日)
<参考文献>
赤澤史朗「第二次世界大戦後の日本における民間人戦争犠牲者の補償問題」同『日本人の民間人戦争犠牲者の補償問題に関する政治史的研究』科学研究費補助金研究成果報告書、1993年
荒木誠之「援護法と社会保障?その相対的独自性と相互関連性」沼田稲次郎・小川政亮・佐藤進編『現代法と社会保障』総合労働研究所、1982年
池谷好治「戦争犠牲者援護関連法の立法過程にみる国籍論議」『歴史学研究』728、1999年10月
北河賢三「遺族運動と戦争未亡人」『戦後の出発』青木書店、2000年
木村卓滋「戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定と軍人恩給の復活」『人民の歴史学』134、1997年12月
菅沼隆「日本における失業保険の成立過程(1)〜(3)」『社会科学研究』43‐2、43-3、44-3、1991年〜1992年
同『被占領期社会福祉分析』ミネルヴァ書房、2005年
田中伸尚、田中宏、波田永美『遺族と戦後』岩波新書、1995年
村上貴美子『占領期の福祉政策』勁草書房、1987年
討論概要
吉田裕 講和関係費とは何か。
青木哲夫 アメリカ軍の防衛分担金のことではないか。
植野真澄 賠償金とは違うのか。
青木哲夫 賠償金はこれから先の交渉になる。国内を優遇するとアジア諸国の心証を悪くするということがある。賠償をどのくらい取られるかは、問題だった。
吉田裕 宮沢喜一がドッジから、軍人恩給の復活予算に対して、連合国の戦争犠牲者のことを考えるようにと強く言われた。1952年5月2日の戦没者追悼式についても、占領軍から内容的に言われて、無宗教式でやるようになった。全体として干渉しなくなっているが、ポイントではまだこの時期も干渉している。
北河賢三 国家補償の方向をめざしたが不十分なので援護法だという説明だったが、そのことと社会保障の見地からということは別のことである。援護法の評価の仕方が別れている。末高は無差別平等の社会保障の方向で理解しょうとする。法案作成者の方は国家補償の観点から考えていたが、援護という緩和された表現になった。ということで理解していいのか。
植野真澄 医療給付・遺族・身体障害者・孤児などの中身そのものの、法律の作り方は社会保障法にある。「国家補償」や「弔慰」という言葉を入れることによって精神的慰謝の意味が加味される。社会保障の延長としての援護として法を作った方がまとまりがつくと厚生省は考えたのではないか。言葉として「国家補償」や「弔慰」を入れたので、運用段階で、精神的慰謝を含めた補償を国はすべきだという議論が起き、訴訟も起きた。
北河賢三 戦後の社会保障法は、無差別平等の社会保障の方向だが、児童福祉法や身体障害者法は、その名目で実質的には特殊な戦争に関わるものを救済するという大枠で理解できる。社会保障は一般的に実情に応じてどこまでやれるかということになる。
植野真澄 末高は、社会保障は憲法第25条に規定された生存権に基づくものだから、無差別平等にすべきだと言っている。戦争で傷害を受けた人や遺族が求めるものは、生存権ではなく、昔の戦争をした国が責任を取って補償すべきだということにある。それを突き詰めて法をつくると、精神的慰謝が強くなり、社会保障の見地から制限できなくなる。
北河賢三 無差別平等の社会保障は占領政策に対応して初期は評価されるが、原因・条件の如何を問わず困窮者を保護するので、戦争の打撃の大きい人が何時までも最下層になる。保障は最悪の事態に対応するだけである。末高は朝日訴訟で国側の証人になっている。無差別平等は非常に低い水準を考えている。末高の議論は積極的な評価だけで考えることはできない。
山本唯人 末高の議論は戦後補償は認めないで、生活保護でやれということか。
北河賢三 戦後初期にはいろいろな事情で困窮者が膨大に増えたので、末高の議論は説得力があった。
植野真澄 40年代後半と50年代後半では社会保障の事情が異なる。国民年金法ができる時、調整して軍人恩給を減らす動きがあるが、青柳一郎は軍人恩給は特別な要補償性があるとして反対する。法案の最後の修正の時に、山下義信参議院議員が国民義勇隊などへの拡大を言うが、その後被爆者への医療法の制定に努力する。
山本唯人 扶助ではなく、国家補償という路線が最終的に選択されるが、それが緩和されて援護になったとすると、援護法は補償法に準じる性格を持つが、援護法は社会保障の考え方の中に、国家補償的考え方を盛り込んだとすると、社会保障法に準じるものになるが、どちらの解釈なのか。
植野真澄 法律の仕組みが両方の解釈ができるものになっている。申請主義を取っているので、軍との雇用関係がある、軍の命令があることを資料で証明しなければならない。要求する側は国家補償に準じる社会保障と言い、国は社会保障に準じる国家補償と言う。
山本唯人 制度の設計としてどちらなのか言えないのか。国の方としては、戦後補償という考え方を否定して、援護としたのか。
植野真澄 そうでないと民間人が入らない理由がつかないように思えるが、まだ確証できる史料はないため、今後の検討課題としたい。
北河賢三 民間人を国家補償の観点から救済する発想はほとんどない。民間人を対象にしてなくとも、国家補償ということはあり得る。何らかの形で引っかかるようにしているのであって、民間人すべてを救済するという考えはもともとない。
山本唯人 国家補償が否定されたのは、民間人問題と別のところにある。
北河賢三 私もそう思う。
植野真澄 運用の問題と思う。
北河賢三 戦後5年間ぐらいで実態としては、社会保障法が一通りできて、予算も相当付いている。その後で従来の軍人援護のような性格のものが出てくる。
大竹正春 翌年に恩給法が復活している。援護法対象の旧軍人が恩給法に移行したが、恩給法の方が優遇されるからか。恩給欠格者だけが残ったのか。
植野真澄 年金や一時金は、援護法でも恩給法でも変わらない。選択できる。(植野後記:恩給法と援護法の適用を両方持つ場合は、本人がどちらを受給するか選択できるのではなく、援護法の適用を停止され恩給法に移行する。恩給は階級に応じた額が支給されるため、結果的に恩給を受給した方が「優遇」されることになる。軍人恩給復活当時、恩給の受給権のない人とは、恩給を受給するに至らない軍歴を持つ旧軍人軍属や年齢制限のため受給を停止された戦没者遺族、戸籍上の関係はないが戦傷病者戦没者遺族等と実質的な関係を持つ家族(恩給は戸籍主義)などがあった。)医療給付は援護法で取り扱われる。一人の人で二つの制度を受けている人が一番多い。
北河賢三 予算は軍人恩給の方が圧倒的に多い。恩給欠格は基本的に年数か。
吉田裕 そう。
北河賢三 扶助料は一律である。
青木哲夫 扶助料は2分の1だから、階級格差がある。
北河賢三 扶助料は自動的にでる。
山本唯人 階級格差は援護法でも同じか。
植野真澄 援護法の遺族年金は階級差がない。戦傷病による加算は、援護法でも恩給法でも階級差がない。(植野後記:援護法では身分による階級区別はないが、恩給法は、扶助料ほどの差ではないが、区別はある。)
青木哲夫 加算だけ分けられるのか。分けられなければ、みんな恩給法になる。
大竹正春 厚生省の援護事業は軍人に対する援護しか考えていない。厚生省の援護局は復員省から来た人たちが主力を占めている。しょうけい館も民間戦災傷害・傷病者のコーナーがあるべきである。
植野真澄 館内では戦傷病者に関する援護年表を展示している。
吉田裕 戦争受忍論を問題にしてきている。どこで線引きするかがある。
植野真澄 状況資料をもとに認められることもある。申請主義なのでもらえたはずの人がもっといたと思う。
北河賢三 準公務員に対象を広げているだけで、特別権力関係論は貫いている。戦争受忍論で退けられる範囲は多い。
吉田裕 逆に戦争に協力しなかった人には何もしなくて、よくなる。治安維持法の犠牲者も国家賠償を要求している。
青木哲夫 国家補償の精神とは、何を考えているのか。国家のために尽くした人だから、国家が面倒を見るのか、それとも国家のせいで被害を受けたから、国家の責任で国家が面倒を見るという意味なのか。 前者だと空襲でただ逃げた人はだめになる。
北河賢三 法律論では、国家補償は国家の責任ということで、その内容は問わないという趣旨だと思う。
植野真澄 国家補償を盛り込んだ人は「国家の責任で」という論理から占領期は運動をしていたし、その後もそう考える自由党の人もいたかもしれないが、どちらの考えもあった。それで入れられる人は入れていくという戦略があった。国籍離脱者に対する法律は、国家補償の精神ではなく、人道的見地によりとある。
北河賢三 人道的見地によりというのは、本来の責任は認めないけれども、事態に対応するためというものである。
山本唯人 軍人恩給と援護法は事実上セットであったとすると、援護法の制定過程だけで援護法の性格を押さえられるのか。援護法は何のために作ったのか。
植野真澄 軍人恩給の復活過程まで見なければならないということは、その通りだと思う。援護法には医療給付・職業訓練・リハビリなど、本来の厚生省の仕事だったものが残る。軍人恩給に改廃を加えて復活する必要があったが、そのやり方が決まらなかったので、遅れて一年延びた。対外的にもいきなり復活するのはだめと思ったこともある。
吉田裕 旧軍人の中にも戦後民主主義的な状況があって、階級差を認めても、その上下格差が圧縮されている。社会的にも軍人だけが何故という状況があった。
山本唯人 論理的に、恩給ではなくて援護でいくという発想があってできたものではなく、二段階になったのは戦術的問題なのではないか。発想の基本は恩給の復活ではないのか。援護法は恩給復活のワンステップではないのか。
植野真澄 政府はそうだが、国民的には援護法により補償が議論になった。
吉田裕 後で自殺者や捕虜や軍法会議で処刑された脱走兵などにも援護法を拡大適応していくのではないか。東条英機は文官としての恩給はもらっていたが、軍人恩給が復活して、二重取りをしたと言われたが本当か。
植野真澄 公務員として、文官・武官を問わないで、期間によって算定するので、二重取りにはならない。
山辺昌彦 厚生省で援護法の立案に関わった人たちは、もともと厚生省の人なのか、それとも旧復員省から来た人なのか。
植野真澄 援護法を作った厚生省のスタッフは戦前からの厚生官僚も含まれていた。恩給復活の議論には旧軍人が関わっている。
山辺昌彦 援護法の制定と軍人恩給の復活の推進とでは、関わった人たちが違うと見てよいのか。
植野真澄 厚生省の中でも復員・引揚・援護には旧軍人が関わっている。現場で援護業務に携わった人は戦争未亡人が多かったとも聞いたことがある。
吉田裕 各県の世話部・課には連隊区司令部の流れの旧軍人が多かった。
植野真澄 未復員者や遺骨の調査に旧軍人が入っていた。
鬼嶋淳 援護法制定の時に調査はどれくらいされたのか。厚生省内部の変遷はどうなっているのか。
植野真澄 援護法制定に関する調査は厚生省が1951年にまとめている。各県の世話課には1948〜1949年ぐらいに調査することを通達している。理念を議論する時にはデーターが揃っていた。それにより、予算の必要額もつかんでいた。厚生省内部の変遷は大きくいうと、ほとんどは社会局から繋がっている。雇用問題だけは労働省に移管されている。
一瀬敬一郎 援護法の対象になることは、戦争中でも国がやっていたのか。敗戦になってできたものと、国の施策として連続しているのか。他の国と比較して、日本の制度はどう位置付けられるのか。
植野真澄 法の建前や名目は全然違うが、必要な内容は戦中の制度を参考にしていて、連続性がある。戦後に加わったものには、遺骨収集・引揚者・在外資産の処理などの問題がある。
北河賢三 国家は恩恵であるという言い方をするが、戦時災害保護法では権利性があったが否定されて、戦後は生活保護一般に還元される。
植野真澄 戦後、要求する側の権利性の意識は高まったが、線引きがおこなわれたため、国家に認められていない。海外との比較については、当時の厚生省は海外の同時期の、特に同じ敗戦国の西ドイツの法などを翻訳してよく調べている。遺族会も関心を持って調べている。どこまでお手本にしたかは、まだ検討できていない。それ以外のソビエト・アメリカ・イギリス・フランスについては戦時中から調査している。しかし、援護法の内容の全部が海外の影響であるとは言えない。
北河賢三 青柳一郎の文書の中にはドイツ関係の資料があって、かなり参考にしている。
植野真澄 海外の調査は援護法だけでなく、社会保障制度全体を取り上げている。
山辺昌彦 海外の例では、民間人の線引きはあるのか。
植野真澄 当時の資料を見ると、ドイツは区別をしているが、民間人をまったく補償しないということはない。ナチスと違う新しい国になっているので、継続はしていない。
山辺昌彦 今の国家には責任がないということなのか。ソビエトやアメリカはどうなのか。とくに民間人の扱いはどうなのか。
植野真澄 軍隊が残っている国なので、旧軍人・軍属にどうしているかだけの関心で翻訳しているように思われる。
北河賢三 戦勝国と戦敗国は決定的に事情が違う。戦勝国の場合は戦前から連続している。
一瀬敬一郎 日弁連が各国における戦後補償の調査をしている。
吉田裕 連合国は民間人があまり死んでいない。イギリスの空襲の死者もドイツに比べて少ない。
植野真澄 管見の限りでは、中国はあまり訳されていない。ソ連は保険共済組合や国民保険の関心から、翻訳されている数は多いように思う。
一瀬敬一郎 どこでどのような死に方をしたかも明らかにされる必要がある。
植野真澄 援護法制定時では、帰っていない人が大勢いて、その調査が課題だった。1959年に戦時死亡宣告の制度ができて、その調査に見切りを付けてから、どのような死に方をしたかがその次の課題になったように思われる。そこでは、公務に関連したのか、戦闘行為そのものに関連するのかをまず調査している。帰ってきてから発症するものはどこまで戦争に関連するのかを調べている。本人の申告と戦友の申し立てで調べている。あと本人の申告の軍歴が正しいかを確認している。
(文責 山辺昌彦)
今後の予定
第7回研究会
日時 2007年2月25日(日) 午後2〜6時
場所 東京大空襲・戦災資料センター
報告者 青木哲夫氏
報告題 日本の防空壕政策
報告趣旨
空襲に備え、各戸に設置が奨励された防空壕。しかし、実際の無差別空襲では、これらはほとんど効果をあげなかった。その最大の要因は、もとより、米爆撃隊の圧倒的な攻撃力にあったのだが、日本においては、防空壕にどのような意義と役割を付して、どのような建設方針を持っていたのか。日本の防空論・防空政策の推移の中から防空壕について検討する。