母子像東京大空襲・戦災資料センター
災害研究室だより題字

戦争災害研究室だより 第5号(2006年10月31日発行)
東京大空襲・戦災資料センター
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第5回研究会報告

日時 2006年10月9日(月)14:00−18:00

場所 東京大空襲・戦災資料センター

報告題 伊香俊哉「戦略爆撃から原爆へ−−拡大する「軍事目標主義」の虚妄」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争』5「戦場の諸相」所収、2006年)

報告者 青木哲夫

出席者 伊香俊哉 植野真澄 大岡聡 鬼嶋淳 土岐島雄 山辺昌彦 山本唯人 吉田裕

要約と感想

「感想」の部分は字下げをして緑色の文字を使った

はじめに

こうした課題設定は伊香氏の戦争違法化体制論研究の展開のなかでのものであろうと考えられる。また、「軍事目標主義」のもった意味への論点が集約されてくるという特徴が感じられる。

一 ハーグ陸戦法規からハーグ空戦法規案へ

1 ハーグ陸戦法規と爆撃

 ここでは、戦時国際法の発展過程での空襲の位置づけを行なう。

 1899第一回ハーグ平和会議では空爆禁止宣言(5年期限)がなされたが、1907第二回ハーグ平和会議では空爆禁止宣言署名は少数国にとどまった。ただし、陸戦法規25条に追加がなされ、「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段二依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スル事ヲ得ス」とされ、非防守都市への空爆の禁止がなされた。この場合、飛行機・高射砲を備えているからといって防守都市とはならないと解釈された。

2 軍事目標主義の登場

 1次大戦での戦場はるか後方の都市・軍事施設・工場・交通線などへの爆撃が実施され、これは「戦略爆撃の萌芽」(274頁)であり、陸戦規則25条は「瞬く間に乗り越えられ」た。 

ここで、「戦略爆撃の萌芽」とはどのような意味であるか? また、陸戦規則25条では「戦場後方の軍事目標‥‥」も非防守都市に含まれると解釈されたのか?ということを質問したい点として感じた。

 1次大戦中の列国の立場は「軍事目標ならばどこでも爆撃してよく、非戦闘員の生命及び財産に対する損害を顧慮する必要なしというものと評された」(傍点青木、以下同じ)「軍事目標主義を標榜した爆撃は「誤爆」により市民を殺傷していった」(274頁)というものであった。 

この場合、攻撃側は、非戦闘員攻撃は誤爆と認識したのだろうか、つまり建前上は非戦闘員を攻撃してはならないとしていたのか?

 1922六ヵ国法律家会議では各国の立場は
  米:列挙された軍事目標の無限定爆撃と地上戦闘地域への無差別爆撃の容認
  英仏:爆撃側が軍事目標と判断した目標は爆撃しうる
  日:爆撃をできるだけ制限する
であり、ハーグ空戦法規案として軍事目標(軍隊、軍事工作物、軍事施設、……連絡路、輸送路)への爆撃は合法、「文民たる住民」爆撃は非合法が決められた。これを軍事目標主義とする。

 空戦法規案は、「陸戦規則第二五条の範囲で爆撃を規制する方向ではなく、第一次大戦で示された爆撃の実態に即した空戦法規を作成する方向に進んだのである。軍事目標主義は、総力戦段階に照応して、爆撃により敵国戦争継続能力の破壊を可能にしようとするものであり、戦略爆撃を合法化する規定であった。」(276頁)

この空戦規則案24条3(作戦行動非直近地域爆撃の禁止)、4作戦行動直近地域爆撃の制限についての評価(直近地域爆撃の許容している)は、厳しくないだろうか? 3・4が適用されれば、対日都市空襲はほとんど非合法となり、そうであれば条文としては有効性があったのではないのか? また、誤爆(過失)は戦時国際法では問題にならないのか?

 1932ジュネーブ軍縮会議一般委員会では、空中からの対市民攻撃の全廃、爆撃の全廃がうたわれ、1932ジュネーブ軍縮条約案では、空襲の完全な禁止、焼夷弾の禁止が示されたが、そうした方向には進まなかった。

二 「軍事目標主義」・無差別爆撃・原爆

1 軍事目標主義の定着

 日本の対中都市爆撃に対して、「軍事目標主義からの逸脱」との批判がなされたが、日本側は非防守都市非存在論(航空機と高射砲があれば防守状態)と主張した。

このような主張は、『週報』96号の海軍省海軍軍事普及部「空爆と国際法」にも見られる。こうした主張では、対日都市空襲はほとんど合法される。

2 無差別爆撃への道

 軍事目標主義が無差別爆撃へ移行する過程は、日本の場合は37南京攻撃での自軍の損害から夜間攻撃へ、さらに戦意破壊爆撃へというものであり、イギリスは、当初、地上目標は攻撃対象としなかったが、自軍の損害やドイツの都市爆撃から夜間戦略爆撃へ移行した。(コベントリー壊滅への報復爆撃)

イギリスについては、バトルオブブリテン(40.8〜41.5)の経験は、考えられないだろうか。

3 軍事目標主義と無差別爆撃

 英・米の無差別爆撃についての見解の違いがあったが、43ハンブルグ空襲以後、米軍も地域爆撃へ傾斜(281頁)していった。米での議論には、「無差別爆撃を強く非難する声も」(281頁)あったが、日本では無差別爆撃について人道的議論はほとんどなく、「アメリカ軍の状況とは大きな開き」(283頁)があった。

アメリカの対日本空襲での精密爆撃と無差別爆撃の二重性(東京大空襲以前の精密爆撃の時期においても、都市無差別爆撃は第2目標などして計画され、実施されていた)の問題がある。特に新発見資料による「米軍は当初から、下町の同じ地域を第2目標として幾度となく空襲し、遂に東京大空襲で主目標として焼き払ったことが見て取れる。」楢崎茂彌「マリアナからのB29日本本土空襲(1944/11.24)の作戦任務報告書(中島飛行機武蔵製作所と東京市街地・港湾部爆撃)」『空襲通信』第8号)との議論は重要であろう。

4 軍事目標主義と原爆投下

 原爆投下の要因には戦意破壊爆撃の延長としての面があった。

 「軍事目標主義は完全に名目化されていたが、軍事目標主義という爆撃正当化の論理は、原爆投下においても、爆撃する側の心理的負担を軽減する魔法の言葉として機能したといえよう。」(284頁)

この心理的負担軽減のための軍事目標主義との論点は重要である。米軍東京空襲でもそうであった。日本の対中空襲ではどうだったろうか?

5 原爆投下と終戦

 原爆投下は、日本降伏への他の構想(天皇制容認、ソ連参戦、本土上陸作戦)を否定して実施された。「日本の早期降伏をあえて引き出さないことで、原爆投下の機会を獲得し、原爆投下の「心理的効果」により日本を降伏に追い込む一方、ソ連の参戦の機会を喪失させようとしたトルーマン政権の意図によるもの」(285頁)であった。

三 爆撃と市民

1 無差別爆撃と市民

 「市民は兵士よりも恐怖に堪えられないから、爆弾や毒ガスによる爆撃を受けた市民はパニックを起こし、さらに戦争終結を求めて立ち上がると考えた」というドゥエット理論、「この戦略爆撃の理論は実際の戦争の過程で証明されることになったのだろうか」(286頁)問題である。「爆撃による戦意破壊に対する安易で過剰な期待は市民の犠牲をエスカレーションさせたというのが実態に近かった」(289頁)。

 日本でも、市民は自国の無差別爆撃を支持していたし、市民は無差別爆撃の悲惨さを、報道や防空対策によって、ある程度理解していた。すなわち、「総力戦体制下において、自国の戦争目的・行為についての正当性が強烈に刷り込まれ、爆撃への心理的備えまでが徹底された市民が形成された」(288頁)ので、空襲はドゥエット理論のような効果をもたらさなかった。

この議論は、空襲は戦勝をもたらすかという、議論まで一般化できないだろうか。また、日本の防空論で検討すべきこともあるのではないか。

2 市民殺害の論理

 「市民は戦争に無関係で純粋な非戦闘員ではないという論理が浮上」(290頁)するが、2次大戦後、1977第一議定書(国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し、1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される議定書)48条51条によって一般住民と戦闘員との、非軍事物と軍事目標とを区別、市民を攻撃対象とすること、恐怖を広めるための暴力・威嚇の禁止、地域爆撃を無差別爆撃として禁止(291頁)した。

この第一議定書の規定は、空戦法規案の「軍事目標主義」とは異なるのだろうか?

 戦争責任は国民全体にあるとの論理もあるが、これは指導者責任論と整合しないし、戦後における賠償・補償によるべきである。

 原爆投下には人種的偏見の問題もあった。

四 戦争犯罪としての無差別爆撃

 無差別爆撃の違法性・犯罪性はどのように扱われたか

 日本の米軍搭乗兵に対する軍律裁判では、無差別爆撃を戦争犯罪(普通人民殺傷のための攻撃)と認定した。

実行者=受命者への処罰を正当化するものでもあった。

 東京裁判でも無差別爆撃を犯罪視せず、対日爆撃も「いびつな形で相殺」(295頁)されてしまった。

 原爆投下の際、日本側は、非人道的兵器として非難したが、無差別爆撃の中止を求めなかった。

軍律裁判での戦争犯罪認定と整合しないだろう。

 原爆裁判でも、兵器としての特殊性(残虐性)が強調され、無差別爆撃一般はそれほど問題化されなかった。判決では無差別爆撃の違法性(無防守都市への無差別爆撃)と兵器としての違法性の双方が指摘されたが、対日爆撃全般を告発するような動きは生れなかった。

おわりに

 1次大戦後の戦争違法化体制の一応の確立とその破壊ということと同様の事態が、爆撃の歴史についてもいえる(295頁)。空爆批判・禁止に向かっていたにもかかわらず、その方向は確立しなかった。「第二次大戦における軍事力の過度の肥大化と原爆の登場、それと同時にスタートを切りつつあった冷戦的思考は、絶大な破壊力を見せつけた戦略爆撃という手段を軍事指導者たちに所与のものとした。」(295頁)「戦後においてこの軍事目標主義の虚妄は今日に至るまで繰り返されてきているといえよう」(296頁)。

 今日では、あらゆる国の無差別爆撃の告発が可能であり、「戦争の惨禍を拡大しないための連帯を生み出していく」(296頁)べきである。

論点

軍事目標主義について

 軍事目標主義が無差別爆撃をもたらすという論旨であるが、軍事目標主義が厳格に行なわれなかったことの問題ではないだろうか。空戦規則案の評価は厳しすぎるようにも思える。空爆の全面的禁止と制限(つまり軍事目標主義)の関係は、〈戦争行為の全面禁止と制限(戦時国際法)〉、〈兵器全廃と特殊な兵器の制限〉の関係と同じではないのか。原爆判決も軍事目標と非軍事目標の区別を問題にしているのではないか。

ドゥエット理論について=空襲は戦勝の決め手となるか

空襲が勝敗を決定した戦争はあるといえるか?

日本の防空論

 空襲の威力についての過小評価、ないしは過小に宣伝をせざるをえないことがあったのではないか。

 1941年「時局防空必携」や解説書の類では、空襲はそれほどないだろうし、爆弾・焼夷弾も落ちてしまえばただの火事でありたいしたことはない、という議論であった。1943年「改訂 時局防衛必携」ではこれらの点は修正・削除されたが、にもかかわらず、「爆弾なんていふものは、落ちても外国と異ひ、日本のかういふ土地及び建物の状況では被害は大しておおいものぢゃない。」(8頁)「私達の考へとすれば、とにかく焼夷弾なんか絶対怖くないものであるといふことを各人が認識して貰ひたいと思ひます。」(『週報』428号(1945年1月10日号)「敵の空襲企図と今後の空襲判断」(防空総本部、陸軍省防衛課、陸軍築城本部、陸軍技術研究所、防衛総司令部、東部軍、農商省、東京都、警視庁などの防空関係者、帝都罹災地区の防空従事者による決戦防空座談会)といった発言は続いていた。

討論概要

青木哲夫さんの報告の質問に加えて、伊香俊哉さんへの追加質問

山本唯人 空襲と戦略爆撃は違うのか、同じなのか。

大岡聡 イタリアのドゥエット理論はいつ頃提唱され、日本にはどう紹介され、日本の防空論に影響はあったのか。

伊香俊哉 リプライ

空襲と戦略爆撃との違いは、空襲は空からの攻撃を総称するものであり、戦略爆撃は空からの爆撃で相手国の降伏を導き出すというものである。

第1次大戦の時の爆撃を萌芽と言ったのは、規模だけではなく、ドゥエットの戦略爆撃の理論が出る1921年より前だからである。

陸戦規則25条は地上戦で戦闘状態になりつつある所は空から爆撃してよく、戦場から離れている所の爆撃は禁止している。

誤爆という認識が建前か本音かということは、第1次大戦中の空からの爆撃の命中率が悪かったので、爆撃する側は誤爆と認識していたが、はずれても構わないと意識していた。

日本が爆撃している時は、指導者には市民を爆撃で殺していることに対する罪の意識は感じられない。パイロットには罪の意識を持った人がいたかも知れない。

空戦法規案の評価が厳しいと言われるが、24条が地上戦の直近かどうかを爆撃の判断基準からはずした意味は大きい。軍事目標主義はいつでも隠れ蓑である。24条の3と4の適応で対日空襲は非合法にはなると思う。空戦法規案には誤爆に対する補償規定がある。

イギリスが地域爆撃に向けた動きの中で、チャーチルの存在が大きかった。

空襲は戦勝をもたらすかについては、アメリカの戦略爆撃調査団が戦略爆撃の効果を強調したのは、独立の空軍を作りたいことも関係していた。戦略爆撃調査団は基幹産業を破壊し、戦意を低下させ、戦争終結を短縮したとしている。短縮されたとは言えるとは思うが、始める前の期待ほど早くなかった。空襲だけで地上戦なしに勝った戦争の例には、日本本土の場合がある。

第1議定書は青木さんの指摘通りに、正式名称を入れた方がよかったと思う。これも基本的に軍事目標主義であり、より厳密に定義している。

原爆裁判は軍事目標と非軍事目標を区別している。 

ドゥエット理論はその当時に紹介した本が出たとは思うが、影響はよくわからない。日本の防空論では、浄法寺朝美という軍にいた人が書いているものが興味深い。日本軍指導層は大規模空襲を受ける可能性を低く見ていた。アメリカの空母が近くに来て爆撃することも、中国から空襲されることも考えてなく、ソ連も陸軍を意識していたので、手薄だった。ドゥリットルに空襲されて軍があわてたが、積極防空はとれなかった。高射砲の整備も遅れるし、邀撃機も配備できないし、防空壕を作ることも真剣にやっていない。重慶とは対照的である。

討論

吉田裕 戦術爆撃は地上軍を支援するものであって、戦略爆撃は戦略的な要点を爆撃するものである。総力戦になると軍事目標の対象の範囲が拡がり、交通の要点、ダムなども入るようになる。ドイツが飛行場や港への爆撃をやめて、都市爆撃に切り替えたことによって、イギリス空軍が息を吹き返したと言われている。日本についても都市爆撃にいき、交通・鉄道網の爆撃がなくって、きつくなかったと言われている。1930年代は沿海州にソ連軍の基地があって、そこからの爆撃を恐れていた。

伊香俊哉 焼夷弾も太平洋戦争期に入る前のものと、実際に落とされたものとは、違ってきている。

山本唯人 国際法は植民地にも同等に適用されるのか。錦州爆撃が第1次大戦後初めてといわれる意味は何故か。 

伊香俊哉 イギリスはインドなど植民地での治安行動として爆撃する可能性を考慮していた。空戦法規案も植民地内での爆撃には適用しないことになっていた。錦州爆撃は第1次大戦後、「都市」爆撃として初めてであるとされている。満州事変開始直後に日本軍は地上戦に伴う爆撃は実施している。錦州爆撃でイギリスが日本への宥和から批判へ変わる。アーノルド報告書の翻訳が自衛隊幹部学校の『戦史研究』で出ていることがわかった。

吉田裕 国際法の関係では日本は完全にダブルスタンダードになっている。1944年10月10日の那覇の空襲と原爆投下は国際法違反であると抗議している。軍律裁判は受命者の、爆撃したパイロットへの処罰になっている。日本の場合は上官責任主義を取り、実行者の責任は問わないと言っている。

伊香俊哉 日中戦争開始後、立作太郎は、防守都市へは無差別爆撃が許容されると主張し始めた。田岡良一は、立との論争で、海軍は軍事目標主義にのっとった爆撃をしていると言っている。立は日本に都合のよい国際法の解釈を出す役回りにあることを自覚していたので、何か起こると自説をころっと変えている。

吉田裕 立はたちが悪く、信夫淳平は比較的に抑制的である。

伊香俊哉 国際法学者が自国の国家行為を批判するのは敗戦後のことである。

吉田裕  戦後の国際法学者は戦争協力を反省しないで、軍事問題から遠ざかっていく。

伊香俊哉 政治学者も同じである。

鬼嶋淳  指導者が爆撃効果に期待する根拠は何か。段階性はどうなのか。

伊香俊哉 根拠には蔑視がある。段階は、1944年段階で戦略爆撃の発想が強まる。

山本唯人 重慶空襲以前に相当日常的に空襲があるが、どう位置づけるべきか。中国空軍の上海爆撃の誤爆で傷ついた中国人もいる。

伊香俊哉 大量殺戮に対する抵抗感覚を麻痺させていく働きがあったとも思われる。論文準備で最初『戦史叢書』から拾って、日本軍の爆撃一覧を作った。1931年の錦州爆撃、1932年の第1次上海事変での爆撃があって、1937年に日中戦争が始まると、天津の南開大学を爆撃している。次いで第2次上海事変になると、上海・南京周辺の飛行場などへの、しらみつぶしの爆撃や、南京への渡洋・無差別爆撃をする。その後は、いたるところの軍事施設を爆撃し、1938年に広東では一般の市街地を爆撃している。国際連盟は中国からの訴えを受けて、日本の爆撃を非難している。アメリカ軍が成都から1944年に漢口の基地を爆撃している。

吉田裕 1944年に日本が大陸打通作戦をした時、アメリカ軍はB29を日本軍への爆撃に使わないで、マリアナ諸島へ回してしまったので、中国軍は苦境にたった。

伊香俊哉 日本が中国大陸で制空権を失ってからは、中国にいる日本軍は日常的に空襲を受けている。

青木哲夫 中国は日本を爆撃できる根拠を持っていた。

吉田裕  成都から北九州を爆撃している。

山辺昌彦 その時、上海・南京や撫順も爆撃しているが、その被害はどうだったのか。

吉田裕 中国空軍についての研究はない。東久邇宮日記に防衛総司令官としての記述があるが、アメリカ軍をあなどって、楽観している。

伊香俊哉 東京には重慶の防空洞のような大きな地下防空施設があるのか。

青木哲夫 皇居や市ヶ谷にはあったが、民間人用のはない。

山辺昌彦 山の手には隣組で作ったようなものがあるところもあった。地下鉄は浅草から渋谷まであった。

青木哲夫 毒ガスにどう備えるかは神経質だった。防火は簡易改修を奨励していた。

伊香俊哉 東京大空襲の時、頑強な地下防空壕があったら、死傷率は下がったのか。

山辺昌彦 下町の空襲でも地下室で死んでいる例も多い。

青木哲夫 明治座の場合は逃げ込んだ人が多たぎたことがある。鉄筋の建物で助かったという話は多い。最後に、空襲法規案の評価について、戦場から離れた後方にある軍事施設への爆撃についての伊香論文の規定は読み誤っていた。改めて考えたい。

(まとめ・文責 山辺昌彦)

今後の予定

第6回研究会

日時 12月16日(土)14:00-18:00
場所 東京大空襲・戦災資料センター
報告題 最近の平和博物館と歴史博物館などの戦争展示について
報告者 山辺昌彦