母子像東京大空襲・戦災資料センター
災害研究室だより題字

戦争災害研究室だより 第3号(2006年8月18日発行)
東京大空襲・戦災資料センター
〒136-0073 東京都江東区北砂1-5-4
財団法人政治経済研究所内
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HP http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/

第3回研究会報告

日時 2006年8月9日(日)14:00〜18:00
場所 日本大学法学部(水道橋)6号館第六会議室
報告題 傷痍軍人研究としょうけい館の展示について
報告者 植野真澄(しょうけい館学芸員)
出席者 青木哲夫 植野真澄 大岡聡 鬼嶋淳 山辺昌彦 山本唯人(50音順)

〈しょうけい館(戦傷病者史料館)の紹介〉

1. 「しょうけい館」について

戦傷病者とそのご家族等が戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集・保存・展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設

開館時期:平成18(2006)年3月21日

運営主体:財団法人日本傷痍軍人会(厚生労働省から委託)

館名について:戦傷病者とそのご家族等の労苦を知り、語り継ぐという趣旨から「承継」と名付け、子供から大人まで多くの人々に親しんでいただけるよう平仮名表記に。
なお、館の性格を示すものとして「戦傷病者史料館」という名称を附記。

2.設立の経緯

3. 施設紹介

1)施設の概要

展示面積:698m2(1階338m2、2階360m2

*施設は民間ビルを借り上げたものであり、新たに施設を建設したものではない

2)館内施設

2階:常設展示室

戦中と戦後の戦傷病者とその家族の労苦を、時系列的に実物資料、ジオラマ、模型等で展示

1階:常設展示(戦傷病者と援護のあゆみ)、企画展示、図書閲覧室、証言映像シアター、情報検索コーナー、戦傷病者等からのメッセージ(平和へのメッセージ、作品に込めた労苦)

4. 事業の概要

1)展示事業

戦傷病者及びその妻等の戦中・戦後の労苦の体験を伝える資料を収集し、保存し、これを展示すること。

2)図書映像資料等閲覧事業

戦傷病者及びその妻等の戦中・戦後の労苦に関する体験記、文献、歴史的資料及び映像資料を収集し、これを閲覧させること。

3)関連情報提供事業

 戦傷病者及びその妻等の戦中・戦後の労苦に係る所蔵図書や所蔵資料の内容についての情報を提供すること。

 内外の類似施設等の概要情報及び文献等の所在の情報を提供すること。

5. 展示資料等について

1)展示資料数 285点

(内訳)実物資料(含 複写) 188点
    写真          48点
    レプリカ        4点
    パネル         45点

2)図書閲覧室配架図書 約2076冊

    体験記(約610冊)の他、歴史、社会福祉、戦記等

3)展示資料の他、開館時の収蔵資料約3000点、未整理図書約2000冊

 *資料、図書についてはデータベース化し、検索できるよう準備中。

〈戦傷病者・傷痍軍人に関する主な参考文献〉

(参考文献)

(関係文献)

(研究文献)

(その他)

〈戦傷病者をめぐる現状〉

1. 戦傷病者に対する国の援護

戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年4月30日)

戦傷病者特別援護法(1963年8月)

2. 戦傷病者数

(2005年3月31日現在の戦傷病者特別援護法による戦傷病者手帳交付数)

総数51,692人(軍人49,155人、軍属1,062人、準軍属1,475人)

3.日本傷痍軍人会

[日本傷痍軍人会] 1952年10月結成、1955年に財団法人化

[同妻の会] 1961年結成、1975年に財団法人化

会員数(2005年7月15日現在):22,761人 [妻の会]34,468人

〈しょうけい館の展示と傷痍軍人研究(報告要旨)〉

 しょうけい館では戦傷病者とその家族の戦中・戦後の労苦を伝えるという趣旨から、2階常設展示室の展示コーナーはある兵士の足跡をたどる形でのコーナー区分をして展示している。「戦争とその時代」では入営や出征時にもらったお守りや千人針、戦地から家族に当てた手紙などを、「戦場での受傷病と治療」では受傷時に被弾したメガネや体内からの摘出弾、受傷時に止血のために使った千人針や旗などを、また野戦病院ジオラマでは南方での戦地の救護状況を表している。「搬送」では海軍病院船の氷川丸の映像と模型を、「帰還後の労苦」では戦時中に国が傷痍軍人に支給した義肢や義眼、杖や記章などを、「戦後の労苦」では失明した戦傷病者が点字の練習のために書いた妻宛の点字の手紙や片足踏みが可能な自転車などリハビリや生活上の工夫に関する資料や恩給診断書や摘出弾など戦後も続く戦傷病の労苦を伝える資料を展示している。資料を通じて戦傷病者の痛みを知ってもらうという趣旨から、2階展示室では戦傷病者やその家族から寄せられた資料にできるだけ寄贈者自身の証言を添える形で展示している。

1階では「戦傷病者と援護の歩み」として明治以降の国の戦傷病者に対する施策の変遷を資料とパネルで展示している。他に図書閲覧室や証言映像シアター、企画展示のコーナー、戦傷病者やその家族からの平和へのメッセージのコーナーがある。証言映像は、証言映像シアターで常時上映するプログラムとは別に、情報検索コーナーでも人名、タイトル、受傷部位、受傷地別に検索でき、自由に閲覧できるようになっている。その他、実物資料及び戦傷病者データベースを現在準備中である。

傷痍軍人に関する研究については、戦中は軍事援護の制度史的研究や傷痍軍人に関係の深い義肢の発達史、戦後は療養所内で長く暮らした傷痍軍人に関する研究等が個別的に存在するが、史料上の制約も大きいが、「戦傷病」という視角からの研究自体が少ないのが現状である。

当事者の体験記という視点から見れば、従来戦争に関する当事者の体験記は、戦記ものというジャンルがあるように、戦闘状況を詳しく記したものは数多く存在するが、戦傷病者の労苦そのものを記した体験記、とりわけ戦後の労苦まで詳細に記したものはあまりない。

しょうけい館設立に先立って、(財)日本傷痍軍人会が『戦傷病者等労苦調査事業報告書』、『戦傷病克服体験記録』を編纂したが(ともに2000年)、両書には戦傷病者本人による受傷時の体験と戦後の生活難の叙述だけでなく、戦傷病者の妻による介護や家計を支える苦労や悩みなど、それぞれ断片的ではあるが非常に具体性に富む叙述もあり、今まであまり語られてこなかった戦傷病者の戦後の生活状況を伝えているのが特徴的である。今回の展示に際してはこの2冊の体験記を多く参照した。現在も引き続き体験記の収集に努めているが、それだけではなく証言映像の制作や資料整理など、戦傷病者やその家族に対する聴き取り調査を継続的に実施する予定である。

討論概要

しょうけい館について

大岡聡 しょうけい館のスタッフはどうなっているのか。

植野真澄 スタッフは、館長が日本傷痍軍人会の副会長、事務長は厚生労働省からの人、庶務が2人、学芸員は上司がいて、植野さんが専任でいて、嘱託の学芸員が2人で、司書が1人いる。

大岡聡 報告書と展示と業者の関係は。

植野真澄 報告書のすべてが展示に反映しているわけではない。厚生省・傷痍軍人会・学芸員・業者それぞれの考えの折あわせで展示内容が決まった。

梶慶一郎 PTSDの問題はどうか。中国へ行って、一般民間人を殺して、その精神的痛みを持っている人もいる。イラクから戻った自衛隊員で自殺している人もいる。

植野真澄 戦傷病者の妻から見た夫の労苦など体験者の間接的な言葉を展示で出している。

山本唯人 傷痍軍人会の会員アンケートでこういう項目はなかったか。

植野真澄 肉体的痛みと苦労を聞くのが主になっていて、そこまで踏み込んだアンケートになっていない。

青木哲夫 アンケートは傷痍軍人会の会員外からも取っているのか。

植野真澄 開館後は来館する人には傷痍軍人会の会員外からも聞き取りをしている。

梶慶一郎 国に戦傷病者の資料館はあるか。

植野真澄 外国に戦争博物館や医療の博物館はあっても、戦傷病者の個人を展示するような博物館はないと思われる。

山本唯人 戦争博物館でないといわれるが、どう分けているのか。

植野真澄 戦争の経緯の詳細は展示していない。徴兵制があって国民の義務であった時代の戦争であること、援護のあゆみ、どこに多くの傷病者が出たかなどを説明している。

山本唯人 戦傷病者のデータベースでは戦災で傷を受けた人と傷痍軍人との関係をどう捉えているのか。

植野真澄 戦争でけがをし、病気をした人を対象にしていて、特に限定はしていない。本人の申告のまま受け入れている。しかし、まだ積極的に呼びかけている段階ではない。

戦傷病者の補償・援護について

山本唯人 援護法があって、平行して恩給法があるがその関係はどうなっているのか。

植野真澄 傷痍軍人に傷病恩給が支給される。療養・治療は援護法による。準軍属は援護法によっている。普通恩給は職歴に応じている。

梶慶一郎 白衣の募金者について

植野真澄 1953年に第1回の厚生省の調査がある。オリンピックの時にも日本傷痍軍人会による調査がある。この時はにせが増えていると言っている。

山本唯人 1950年代は雑多な立場の人が入った運動だったというが、民間人は入っていたのか。

植野真澄 国の補償について、年金・恩給の要求は傷痍軍人のみで運動し、医療・福祉関係の補償を求める時は一緒に連携して要求する場合もあった。

青木哲夫  傷痍軍人会に戦争で傷ついたことの特別視はなかったのか。

植野真澄 現在展示している栃木県の友愛会は、傷痍軍人が身体障害者団体の結成に寄与した1つの例である。

青木哲夫 友愛会が早くから民間人や一般の障害者も目配りしていることは注目される。最近でこそ目配りするようになってきたが。

山本唯人 1950年代の横の繋がりと、今、横の繋がりをつくる動きと、違いがあるとすれば、どのような点にあると思うか。

植野真澄 1950年代の運動が横の繋がりが強かったのは、1950年代は福祉全体の制度が十分でなかったことがある。それがある程度充実した今の段階での運動とは違う。情報の伝わり方も違っていたのではないかと思う。

大岡聡 しょうけい館は金銭の補償よりも、自己確認の意味が大きい。

山本唯人 福祉国家が整備される以前の社会において、「恩給」という制度が持っていた重みを感じる。占領の影響で、その制度が一時的に解体されたときに、従来の枠を超えた横のつながりを作る動きも起こった。しかし、結果的には、そうしたつながりは制度の中に生かされず、恩給で救われる旧軍人・軍属の運動は、恩給の範囲の中で、より平等な処遇を求める方向に収斂していってしまう。なぜ、そうなってしまうのかという点を、検証していく必要を感じた。

植野真澄 恩給をもらうのは当然という考えが強く、他の可能性は想定しにくい。

青木哲夫 軍人恩給一般の復活は、怪我をしていな元旧軍人の要求の方が強かった。

植野真澄 援護法をつくる時、社会党の議員などにより、軍人以外を含める努力がなされている。しかし、線引きが必要で、とりあえず国との雇用関係で引いた。その後義勇隊や警防団などは準軍属に入れられ対象となったが、雇用関係の線引きは残り、民間人がそのまま取り残された。

植野真澄 展示で、もらえない悲惨さだけでなく、頑張ってきたことも入れたくて、友愛会の展示も入れた。安易に希望は持って欲しくないが。

鬼嶋淳 友愛会はいつできたのか。

植野真澄 昭和28年にできている。戦後の傷痍軍人の就職問題が、1960年代には身体障害者の一般の就職問題になっていく。

他館を含めた展示について

植野真澄 空襲の展示をした時に、空襲の障害者から突き上げを食ったというがなぜなのか。

山辺昌彦 空襲を記録する会が体験記を集めて記録集を刊行する費用を、都に出してもらうよう要望したが、障害者に対する個人的補償を一緒に要求しないことが、批判された。

青木哲夫 そこだけをやっていればいいのかという批判は出るが、特定のテーマを展示や研究で取り上げて、それを深めることは必要である。

山辺昌彦 戦中の家族の労苦が描かれていない気がするが。

植野真澄 できなかった。戦争中から結婚している人の実態はまだ十分に把握できていない。本人も戦争中の労苦をあまり書いていない。

山辺昌彦 国立歴史民俗博物館の「佐倉連隊にみる戦争の時代」の展示をどう評価するか。

植野真澄 連隊史を展示するとこんな感じになるのかと思った。連隊がどうみられたかがない。入営生活や地域に密着している面はよくわかった。戦争自身を描けていない。作戦情報の説明はあるが、そこにいた人がどうだったのか、がない。体験記でも徴発などの加害が書かれている。これが展示できればよかったと思う。研究機関なのだから、もっと自由に言っていいのにと思った。

大岡聡 発想として佐倉連隊が先にあった。あれが常設展になるのではないか。

山辺昌彦 あれだけで戦時下を描かれてはどうかなと思った。

植野真澄 昭和館などは、戦時中の生活史が前面になって、戦場の話が後になっていて、もったいないと思う。

大岡聡 歴博の前の担当者はタブーに挑戦して、部落問題、アイヌ、関東大震災の朝鮮人虐殺など取り上げてきた。国立だからできる、やれば他に波及すると言ってきた。今は引き気味だと思う。歴博は社会史・生活史が全館をつらぬくテーマになっているので、ああなるのも理解できる。資料も買っているものが多いような気がする。

鬼嶋淳 歴博などとは違って、しょうけい館とか東京大空襲・戦災資料センターなど特徴をもった館は、個人が持ってくる資料が主になっており、資料に体験談が含まれれば、リアリティが増す。

植野真澄 しょうけい館では、資料と体験記がリンクできるようなデーターベースを考えている。証言がある人の資料を中心に展示した。本人が資料を寄贈して、奥さんが体験記を書いている場合もある。

山辺昌彦 東京大空襲・戦災資料センターでは資料と話をあわせた展示がまだできていないし、体験記のテーターベースもまだである。

嶋淳 空襲を記録する会からの資料は困難だが、個人に即して由来を聞ける新しい寄贈資料は来ている。

(文責・山辺昌彦)

今後の予定

第4回研究会

報告題 「東京空襲を記録する会」の空襲・戦災記録運動について
報告者 鬼嶋淳
日時 2006年9月4日 14:00〜18:00
会場 東京大空襲・戦災資料センター

 「東京空襲を記録する会」(以下、「記録する会」と略す)の運動は、第1に1970年代から80年代にかけて全国規模で行われた「空襲を記録する運動」の先駆けとして、戦後運動史の文脈のなかで、第2に空襲研究の文脈のなかで、これまで注目されてきた。しかし、関係者の対談や回想はあるが、いまだ「記録する会」という組織や運動の経過は、収集資料を含めて歴史的に位置づけられているとはいいがたい。戦争の記憶に関する研究や空襲研究が新たな段階に進んだ現在、再度、「記録する会」の運動を検討し、参加した人びとにとって「記録する会」とは何であったのかを、1970年代という時代性との関連に留意しつつ考える必要があるだろう。そこで今回の報告では、「戦災資料センター」のプロジェクト研究として行われた「記録する会」に参加した早乙女勝元氏・土岐島雄氏・橋本代志子氏への聞き取り調査をまとめつつ、「記録する会」の運動について考えてみたい。