母子像東京大空襲・戦災資料センター
災害研究室だより題字

戦争災害研究室だより 第2号(2006年7月19日発行)
東京大空襲・戦災資料センター
〒136-0073 東京都江東区北砂1-5-4
財団法人政治経済研究所内
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第2回研究会報告

2006年7月9日(日)14:00〜18:00 於一橋大学吉田裕研究室

報告題 東京大空襲時の民間救護
報告者 山本唯人(東京大空襲・戦災資料センター研究員、東洋大学非常勤講師)
出席者 青木哲夫 植野真澄 大岡聡 鬼嶋淳 土岐島雄 二瓶治代 山辺昌彦 山本唯人 吉田俊 吉田裕(50音順)

1. 経緯

研究の意義

(1)東京大空襲下における民間による救護活動の実態を明らかにする

(2)「地域」における「国家」による防衛の論理と、町会、隣組、学校、工場、病院などの様々な社会集団に担われた「社会」の側からの救援の論理のせめぎあい。「総力戦」下の構造に規定されながら、「社会」の側が、何を、どこまで、展開することができたのか

(3)近年の「安全保障security」をめぐる議論、軍事の論理に対抗する社会運動・NGO活動、「軍事的安全保障」の論理と「社会」の接点をどう組みなおしていくのか

2.先行研究・記録

2. 記録の概要

応募記録リスト

著者 受付日 形態 記録の概要
槐一男 05.12.4 聞き取り
書籍
世田谷区池之上国民学校に避難
職員や町内会の人々から親身な救護を受ける
Aさん 06.2.15 手紙
自筆冊子
錦糸公園周辺の様子
千葉街道、旧中川を渡ったあたりに配給所、婦人会の人たちがコウリャンのおにぎりを配布
Bさん 06.2.21 手紙 深川区古石場、商船学校の学生に助けられる
Cさん 06.3.15 電話と自宅での聞き取り 1945年川崎市溝ノ口の部隊に入る
大空襲の1週間後から1ヶ月後くらいの期間にわたり、本所深川方面の焼け跡整理
Dさん 06.3.15 自筆記録 父が足立区本木で軍関係の工場経営、江北橋たもとで従業員用のおにぎりを被災者に配る
Eさん 06.3.20 自筆冊子 竪川で被災、すれ違った軍隊からおにぎりもらう
緑国民学校に設けられた臨時救護所の様子
Fさん 06.3.20 自筆記録 高射砲隊に勤務、八千代台下市場に駐留、3月9日夜一旦発令された警戒警報がなぜ解除されたのか疑問
Gさん 06.3.20 手紙・自筆記録 5月25日青山周辺の様子
Hさん 06.3.20 電話聞き取り
自筆記録
浅草千束で被災、千葉街道を避難、江戸川を渡る手前に救護所、コウリャンのおむすびをもらう
Iさん 06.3.20 手紙・自筆記録 都立駒込病院看護学生、大空襲直後の病院の様子
Jさん 06.3.28 手紙・自筆記録 玉の井駅近くで被災、隣組どうしの助け合い
Kさん 06.4.8 自筆冊子 向島区吾嬬町、町医者(内科)焼け残った医院が臨時の救護所となる

(1)3月10日の直後〜千葉街道を市川の方へ向かう避難民の列、江戸川を渡る手前あたりに婦人会の救護所

Aさん,1986,『焔の町に生きて−足尾・東京での七十年』(自筆冊子)
Hさん,2006.3.20.電話口で聞き取り、メモにしたものを本人が修正

Aさんは錦糸町周辺で、Hさんは浅草区千束で被災
2人とも10日から11日にかけて千葉街道を、千葉方面に避難
江戸川を渡る手前に救護所、「婦人会」の人たちがコウリャンのおにぎりを配っていたという証言で一致

(2)学生、工場、国民学校、隣組、町医者〜地元レベルの比較的小規模な組織活動

Bさん,2006.2.21.手紙

深川古石場で被災、当時満6歳
越中島にあった商船学校、学生たちのグループによる消火活動・被災民の救援
→学校単位で設けられた学生の組織か?

Dさん,2006.3.17.自筆記録

当時14歳、父(当時45歳)が足立区本木で軍関係の工場経営、元は新宿に在住
会社に近いこともあり、足立区上沼田(現江北3-1)に疎開をかねて移住
ここで被災
翌朝(3月10日)、父親が工場従業員の昼食用に作っていたおにぎり4〜50個ほどを自転車に積み、江北橋たもとで被災民に配布、あっという間になくなって帰ってくる
→軍需工場での従業員用の食糧
工場主の判断で被災民向けのおにぎりに利用

Eさん,2004,『市川のみかんと私』自筆冊子

当時本人3歳、母親の話とあとから調べたことを元に再構成されたもの
本所区緑町で両親が屋根板工場経営、ここで被災、姉死亡
翌朝(3月10日)、本所区緑小学校(当時国民学校)に設けられた臨時の救護所で、軍医から治療を受ける
→国民学校が臨時の救護所
軍医であったかどうかは要検証

Jさん,2006.3.28.自筆記録

当時13歳、旧制中1年(都立本所工業学校)、東武線玉の井駅の社宅(「駅近く」ということか?)、3月9日母産後の肥立ちが悪く危篤
家族で駅南口の出札所へ避難、その場で夜を明かす
翌朝(3月10日)、隣組で一緒だったoさん、fさんが見舞い
危篤の母がoさんの家で介抱を受ける(11日朝死亡)
→隣組でつながりのあった人たちによる、危篤状態にあった母の介護・救援

Kさん,2002,「我が歩み」,第四吾嬬小学校昭和十九年三月卒業生,『古稀を迎えて−二十一世紀へのおもいをこめて』第四吾嬬小学校昭和十九年三月卒業生(同窓会文集).

1931年、向島区吾嬬町の町医者の長女として生まれる、自宅で被災
自宅の医院、奇跡的に焼け残る
翌朝(3月10日7時すぎ)、家の近くまで来ると長蛇の列
3時ごろまでかけて、応急手当に当たる
→焼け残った地域の医院、臨時の救護所になる

(3)都立駒込病院の様子〜看護学生として救護活動に従事

Iさん,2006.5.26.資料センターにて聞き取り

1927年生まれ 実家吉祥寺 父は銀行員
女学校を卒業後、徴用を逃れるため看護学校生の試験を受けて合格
はじめ20〜30人いた寮生が、空襲時は2人にまで減少
ほとんどの患者が、火傷と破傷風で死亡
医薬品がほどんどなく、治療はできない、眼は洗眼だけ
地下の霊安室は遺体で敷き詰められる
遺体は、守衛さんが、大八車で上野の山に運ぶ
医師が死亡診断書を出していたかは不明
→薬・材料・人員の圧倒的不足のなかでの看護
大空襲時の看護活動に、看護学生が重要な役割を果たす
遺体の上野の山への移送、「仮埋葬」とのつながりは
カルテ・死亡診断書の発行など、どうなっていたのか

(4)大空襲下の炊き出し〜日本勤労栄養士学校生徒の経験

高木和男,1995,『大空襲下の炊き出し−死臭たちこめる焼野の中で夢中に働いた栄養士の卵の炊き出しの記録』自費出版.

日本勤労栄養士学校
厚生省労働局の下部団体「日本勤労栄養協会」が設立
工場給食向け栄養士の養成が目的
1940年開校 品川区鮫洲の工業学校の空き校舎
1941年産業報国会設立に伴い、日本労働科学研究所(所長・暉峻義等)の中に移転
5回生の卒業間際、大空襲(学校は6回生を卒業させたあと廃校)
暉峻校長の指導の下、3月10日〜16日ごろまで、浅草松屋ちかくの浅草小学校を拠点に救護活動を展開、焼け残った伝法院でも炊き出し班
品川国防婦人会(当時は愛国婦人会と合併し大日本婦人会)からおにぎりの差し入れ
→専門学校生徒、寮生活、集団行動しやすい環境
防空体制外の組織が、校長の判断で直後の救援
品川婦人会の救援、食料の調達ルート、どこから?

(5)軍の動向

久保田重則,1985,『東京大空襲救護隊長の記録』新人物往来社.

当時軍医大尉 陸軍軍医学校(牛込区戸山町)の丁種学生隊教官、第1救護班
第1救護班(皇居を除く都内全域担当)軍医12 看護婦21 運転士4 トラック4
第2救護班(皇居担当)軍医5 看護婦5 運転士2 トラック2
3月10日 3:10 救護班に出動命令
3:30 救護資材と4日分の食糧を積んでトラック出動
民間医師の大半が召集、残った医療機関も疎開や壊滅
軍の機関が救護の主力となるほかない
4:20 本所区役所へ向かう、本所国民学校を救護所に指定
11日 11:30 本所区役所前、吾妻橋たもとの大日本ビールに救護所を移動
12日 正午 東部軍司令部から伝令、撤収命令
14:00 撤収
患者延べ人数1953人 死亡者5人
患者実数 外部から約500人 本所国民学校、大日本ビール約930人

死体収容(処理) 3月10日午後〜1ヶ月以上
東京都・厚生省が協力して、警防団員が各区より人数割りで出動を命じる
そのほか、警察、消防隊、警備召集の部隊、囚人部隊まで、あらゆる機関を動員
人名・住所の分かるものは控え、数日間家族たちに見えるように並べた後、都内67箇所の寺院や公園などに仮埋葬か火葬
炭化死体などは、別に集積
西郷隆盛像の横に臨時火葬場、何日も何日も火葬の煙があがる
途中から緊急勅令をだして、個人火葬を容認
天皇の被爆地域視察(3月18日)、巡幸路周辺で急速な死体処理指示
最大の困難は、竪川・大横川などの掘割に浮く死体の処理
→軍医学校の持っていた人員の約3分の1は皇居の救護用、民間医療機関との関係は?
「東京都・厚生省」の統括による死体処理作業、軍との関係は?
「死体処理」の法的根拠は、緊急勅令によるのか、天皇巡幸との関係は?
死体処理に関する部分は、本人(久保田氏)の体験ではないものがかなり混ざる
火葬の記述(これまでの資料に、大規模な火葬の記述なし)など、全体に検証が必要

Cさん,2006.4.7.自宅聞き取り

1925年生まれ
1945.2.25.川崎市溝ノ口部隊東部62部隊に現役兵として入隊
3月下旬 三田の慶応大学へ移動命令
校舎が兵舎となり、ここから本所深川方面に焼け跡整理に出動
このとき編成された部隊は、ほかの地域のいくつかの部隊からの寄せ集め
川を流れる遺体収容に従事、この時死体と他の漂流物一々区別せず
少なくとも、4月8日までは作業続く
4月下旬 藤沢市のお寺に移動、神奈川県内を転々とし、江ノ島で終戦
→「救護」という言葉は基本的に出てこない、言葉としては「焼け跡整理」
焼け跡整理、主要な業務の一つは「死体処理」
東京都・厚生省による死体処理との関係は?
1944年、東京都作成の「罹災死体処理要綱」では、あくまで「遭難死者調書」作成が原則
「調書」なしでの遺体処理、法的根拠は?
大空襲後の焼け跡整理のために編成された部隊の全容をつかむ資料はあるのか?

3. 暫定的まとめと課題

討論概要

研究史・問題意識をめぐって

吉田裕…防衛庁筋による民防衛の研究がある。今市宗雄「大東亜戦争間の我が国の住民避難について」(『陸戦研究』第417号、1988年6月)や沖縄戦、防空の研究など。『戦史叢書』の本土決戦準備の2巻にも出てくる。『防衛研究資料』が国会図書館の議会官庁資料室にあるが、そこに民防衛もあるかもしれない。陸上自衛隊の『陸戦研究』に対して、航空自衛隊は『翼』と『鵬友』、海上自衛隊は『波頭を越えて』。これらで警備指針など軍の民防衛の方針を追えるし、防衛研究所の戦史部の史料にもあるだろう。防衛庁にある史料のリストは公開されている。史料が公開されるかどうかは別にして。

植野真澄…『軍事史学』第37巻第1号(2001年6月)に、古川由美子「太平洋戦争末期の戦災処理」がある。

土岐島雄…沖縄にいた32軍の綴り(『球第1616部隊命令録』)を朝日新聞社の展示「ひめゆりの乙女たち展」(1980年)で使った。

青木哲夫…今市宗雄さんの論文「大平洋戦争期における『住民避難』政策」(『軍事史学』第24巻第1号、1988年6月)は学童疎開50周年の関係論文集『学童疎開の記録1 学童疎開研究』に再録されている

山辺昌彦…「民」はどの範囲なのか。軍と官と民に分けた民なのか、軍と民間との対比なのか、どっちか。

山本唯人…militaryに対する「民間」civilianということで整理できると考えている。Publicに対するprivate(私的)という意味での「民」ではない。その意味では、軍以外の公的機関による救援も、「民間」に含めて考えている。

大岡聡…防空法上、民間防空業務がある。

二瓶治代…おにぎりの配布などの救護は確かにあった。その人がだれかわからなかった。これは全くの民間では出来なかった。隣組や市と区がつくった団体や国のつくった国防婦人会がかかわったのではないか。

吉田裕…この時は国民義勇隊にまだなっていない時なので、大日本婦人会がまだある。

大岡聡…警防団の幹部は準公務員で、一般警防団員は民間人だった。役所に食料が備蓄されている。けがの手当も防空訓練に組み込まれており、蓄積されていた。

二瓶治代…女の子の遊びの中にも 救護に関わるものがあった。

吉田裕…内務省の防空行政の研究はあるのか。

鬼嶋淳…警防団の研究は、大日方純夫さんの「戦時防空体制と警防団の活躍」(『近代日本の警察と地域社会』所収,筑摩書房、2000年)がある。

大岡聡…鈴木栄樹「防空動員と戦時国内体制の再編−防空体勢から本土決戦態勢へ」『立命館大学人文科学研究紀要』第52号(1991年9月)がある。

土岐島雄…内務省の防空研究所の実験の写真が国立公文書館にある。

大岡聡…土田宏成さんに、「関東大震災後の『市民総動員』問題について−大阪の事例を中心に」『史学雑誌』第106巻第12号(1997年12月)がある。

吉田俊…なぜ軍と民の違いにこだわるのか。

山本唯人…軍・官・民それぞれに観点のずれがあり、優先順位も異なる。せめぎ合いと協力がある。沖縄戦における民間人被害の問題など、国家や軍による「国防」の論理と、市民にとって安全な社会を作ることとのずれという問題がずっと問われてきた。この問題を、東京大空襲における市民の救援という問題を通して考えたい。

軍官民の線引き、植民地出身者などの問題をめぐって

吉田裕…千葉には本土決戦用の軍隊がいたわけだが、救護と本土決戦の準備との関係はどうだったのか。

山本唯人…千葉から軍隊が来たという語りは多くあるが、警防団が来たという話は聞いていない。

大岡聡…工場・学校は特設防護団をつくって、救護の訓練をしている。

青木哲夫…軍・官がやらない中で、民がやったというように、線引きが実際できるのか。個人の散発的な個別救護もあるが、組織だった救護は民間や個人ではなく、行政によつてつくられた組織がかかわっている。軍や官が何にもやってくれなかったことだけをあまり強調するのは問題がある。

二瓶治代…兵隊や消防士が大勢いた。

大岡聡…情報や連絡が切れた中で各組織が訓練の結果として、官の命令前に自発的に動きだしている。

山本唯人…今回多様な民間救護があったことを強調したが、一方、今まで民間救護が展開しているイメージがあまりなかった理由を考えると、やはりそれぞれの活動は小規模で散発的なものにとどまらざるを得なかったという限界があったと思える。

吉田裕…3月の空襲により、軍や政府の対応が本格化すると言えるのか。4月・5月でどうなるか。空襲が戦意に影響をあたえるので、衆議院・貴族院の秘密会では被害状況を説明しているが、かなりつっこんで空襲の議論をしている。

青木哲夫…埼玉県の史料に、避難してきた人に対して駅でどう救護するかの対策を立てているものがあって、それを市町村に通達している。

吉田裕…伊藤整の太平洋戦争日記に、被災者を郊外の民家に分宿させる話が出てくる。罹災者を無賃で外に送り出してもいる。

吉田俊…罹災者のなかで植民地出身者に対する扱いの差異はあったのか。

山本唯人…事例は出てこないが、あったと思う。

鬼嶋淳…牧瀬菊枝のお母さんは、在日の人と治安維持法弾圧された人との連帯があったと言っている。一つの見方が括ってしまうのは避けた方がいいのではないか。

大岡聡…法制度では差異や分断をするものはなかったように思う。

植野真澄…空襲で逃げている最中には差異がないが、落ち着いた後では区別があるかもしれない。救護法の適用とか、焼けだされて、母子寮に入る時など。

大岡聡…在日の人はそのネツトワークをたよりに逃げたりしている。

吉田裕…流言飛語には、朝鮮人がスパイしているなど空襲に関与しているかのようなものが、広がっている。

山本唯人…徴用で来ていた人を寮に閉じこめた例がある。

山辺昌彦…在日ですでにいた人と徴用で連れてこられた人の間では違いがあるのではないか。ところで、国際人道法で空襲法規より前の方はあげていないのはなぜか。

山本唯人…国際人道法については十分検討できなかった。今後の課題。

個別事例、軍医の立場、「死体処理」などをめぐって

大岡聡…Aさんが千葉街道を避難中に歌ったという歌は、私のおじいさんがよく歌っていた。当時の国民歌謡。

吉田裕…国民歌謡は歌詞がかわって戦後も歌われている。囚人部隊の動員はよく知られているのか。

大岡聡…東京大空襲の記録には出てくる。(栄養士学校の記録の著者)高木さんには別件で聞き取りをしたことがある。戦後ずっと労研関係の仕事していた。もう亡くなった。自費出版をたくさん出している。葉山・藤沢市長の両親の評伝も書いている。

吉田裕…糧友会は、単に病院だけではなく、軍の集団給食全体をよくすることをしていた団体。

青木哲夫…軍医学校の救護班は医療活動のあとそのまま遺体処理へまわるのか。このメンバーではそんなにやれない。

山本唯人…軍医の記録は、医療活動の部分と遺体処理の部分が別々に書かれている。遺体処理の部分は、実体験に基づかない情報源がかなり入っていると思われる。

鬼嶋淳…遺体処理は久保田さんたちがやったことではなく、聞いた話かもしれない。

吉田裕…町医者は、召集されて、軍医になっていた。軍が出さないと医者がいない。軍は町医者に依存していた。

植野真澄…軍直轄の軍医にとって、一般市民の救援はメインの業務ではない。

大岡聡…久保田さんの「救護隊長」とはどういう意味か。

山本唯人…久保田さんは、軍医学校、第1救護班の班長。著書タイトルの「救護隊長」は誇張か。

吉田裕…史料の話に戻るが、戦略爆撃調査団のファイナルレポートの原資料群の中に日本から提出させた民防衛の資料もある。マイクロになっていて、一橋大学で持っている。この民防空の日本語資料だけでも集める必要がある。

土岐島雄…空襲を記録する会は戦略爆撃調査団の原資料群(サポーティング・レポート)も集めたが、使い切っていない。マイクロでとり、目録をつくっている。インタビューのテープとともに、江戸東京博物館に預けてある。

大岡聡…NHK福岡制作の番組で 戦略爆撃調査団の日本人への聞き取り資料をおこして使っている。インタビューされた人のその後も追っている。

土岐島雄…山本五十六は空襲を受けたら、軍への考えが変わると言っている。東久邇宮は軍防空に軍が必ずしも協力しないと書いている。軍・官は民間のことを考えていなかったというのが実感。民間人どうしもきれい事だけではない。たとえば、配給を余分にもらうために、同じ日の罹災証明書を2通持っている人がいる。区長・隣組長・警察署長などがそれぞれ罹災証明書を発行している。3月の罹災証明書はガリ版や手書きのものが多いが、4月・5月のはちゃんと印刷されている。

吉田裕…東久邇宮の話は日記に出ているはず。一橋大学の韓国人留学生が、伝単など心理戦についての戦略爆撃調査団の史料を使って研究している。

鬼嶋淳…戦時下の社会は分断されている。家族もばらばら。少し離れたところのことはわからない。動員と自発性の線引きはできない。両者を対立的に捉える問題の立て方自体を変える必要があるのではないか。救護も時期区分が重要である。空襲最中の救護と少し後の焼け跡整理とは段階が違う、区別する必要がある。

山本唯人…救護と焼け跡整理に関して言えば、これはまさに同時期に進行しているイメージがある。

二瓶治代…私はあの場面にいたものとして、「埋葬」という言葉には、どうしても引っかかる。あの時、一般民衆の遺体はゴミのように扱われた。あの状況を、「埋葬」といえるのか。

吉田裕…大雑把な埋葬の仕方を法令で合法的にしているのか。

山本唯人…仮埋葬や改葬して火葬したことについて、東京都公園課の担当者が、戦後40年を経過して開いた座談会の記録がある。

青木哲夫…火葬した遺骨は慰霊堂にあるが、名前のわかる人は個個の骨壺に入っている。名前のわからない人は仮埋葬地毎にまとめて合葬して一つの壺に入っている。家族が引き取りに来たら、個個の骨壺は返している。合葬の場合はその人と特定できないが、遺骨を分けて渡した。遺体を改葬する時も人数を数えている。10万人にはならない。

山本唯人…東京都の記録によれば、3月10日以前の遺体はすべて身元がわかり、家族が引き取ったことになっている。

二瓶治代…名前が分かつても引き取れなかったという話も、引き取って火葬した話もある。

吉田裕…遺体の引き取りに関する法令も、勅令かどうかも確認する必要がある。(文責・山辺昌彦)

今後の予定

第3回研究会

報告題 傷痍軍人研究としょうけい館の展示について
報告者 植野真澄
日時 2006年8月9日 14:00〜18:00
会場 日本大学法学部(水道橋)6号館第六会議室
   http://www.law.nihon-u.ac.jp/mp.html
   本館の裏に当たります。
   JR水道橋駅西口から靖国通り方面(東京ドームと反対側)に南下
   鉄道建設のわきの路地を東に入る。

 しょうけい館(戦傷病者史料館)は、今年の3月に開館した戦傷病者とその家族の戦中・戦後に体験した労苦を伝えることを目的に設立された国立の施設である。厚生労働省が(財)日本傷痍軍人会に運営を委託している。しょうけい館の目的は「戦傷病者とその家族が戦中・戦後に体験した労苦を伝えること」であるが、「労苦」と一口に言っても人によっても時代によっても様々な「労苦」が存在する。戦後60年を経た現在、「労苦」を展示、史料館という場でどのように後世に伝えることができるのか。今回しょうけい館の展示を作るにあたって直面したこと、考えさせられたことなどを傷痍軍人研究の現状と今後の課題とともに報告する。