母子像東京大空襲・戦災資料センター

【06】東京大空襲の「救護の記憶」をお寄せください

あの日、おにぎりをくれたのは誰?
東京大空襲の「救護の記憶」をお寄せください

山本唯人(東京大空襲・戦災資料センター研究員)

 第4回都市空襲シンポジウムの討論では、会場から、旧深川区平井町(現江東区東陽町)で被災され、その後、避難先の世田谷区・池之上国民学校で町の人たちの温かい救護を受けたという、槐(えんじゅ)一男さん(現神奈川県藤沢市在住・友の会会員)のご発言がありました。槐さんは、2002年、ご自身の体験をまとめた手記、『火の記憶 ガキの頃』をセンターに寄贈されています。

 槐さん(昭和4年生れ・当時15歳)は、3月10日東京大空襲のあと、お父さん、お母さんと近くの東陽国民学校に避難しました。学校は全焼し、焼死者が折り重なる惨状でした。やがて、衛生兵が目の治療を始めると、その前に長蛇の列ができました。脱脂綿の使い回しによる手当てで、バケツの消毒液は黒ずんでいました。お昼ごろ、軍隊の誘導で、永代通りを日本橋までいきました。地下鉄は動いていました。槐さんたちは、ここで、さらに渋谷へいくようにと指示され、渋谷へ着くと、また私鉄に誘導されて、最終的に井の頭線・池ノ上駅で鉄道を下車し、池之上国民学校の講堂に避難しました。電車はすべてフリーパスでした。講堂は、下町方面から焼け出された人たちで一杯でした。槐さんたちは、それから4、5日間、ここで、町内会の人たちなどから、おにぎりの炊き出しや、味噌汁をもらうなど、親身なお世話を受けました。

 梶さんは、この学校や町名を思い出せずにいましたが、最近ご自身の記憶や資料を追跡され、その場所が、世田谷区の池之上小学校であったことが判明しました。しかし、残念なことに、学校の記録や区史のなかに、この時の記録は見当たりません。このようなご経験をもとに、槐さんは、「あの時、私たちは政府や軍隊ではなく、町の人たちによって助けられた。東京大空襲のとき、このような“民”の救援があり、それによって多くの人々が助けられたことを、後世に伝えるべきではないか」と、訴えておられました。

 確かに、センターに寄せてくださる記録に、「被災」の記憶は多くありますが、そのあと受けた「救護」の記憶はあまりないように思います。東京大空襲のとき、「救護」はなかったのでしょうか? 避難場所でおにぎりをもらった、食べものや衣類をゆずってもらった、助けてもらったという記憶はありませんか? 一つ一つの行為は、小さな「点」にすぎなくても、そうした無数の「点」が集まって、人々の「いのち」を現在につないでいるのだとすれば、それは、私たちが語り伝えるべき大切な「記憶」です。あの時、おにぎりをくれたのは誰なのでしょう−−センターでは、東京大空襲の「救護の記憶」を募集します。心当たりの方は、ぜひ、戦災資料センターまでお寄せください。(槐さんは、今年3月、ご自身の戦争体験をまとめた記録を、教育史料出版会から出版する予定です)

[『センターニュース No.8』より転載]