母子像東京大空襲・戦災資料センター

2013年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.22より)

センターの役割さらに重く

 戦後という言葉もぴんときませんが、ことしは68年です。あの年に生まれた赤ちゃんも古希2年前で、戦後70年の節目が急接近してきました。
 人間の体験は60年で歴史に移行するそうですが、その説に10年を上乗せすれば、戦争はこりごりだという人の語りや主張は、ほぼ終了です。そして、戦争を知らない世代ばかりになるわけで、その後に生きる人びとに必要不可欠なのは、追体験による知性ではないでしょうか。
 都民の戦禍追体験のカナメたる当センターの役割はさらに重く、目下、中・高校生にもわかりやすい特別展示や、空襲体験者の証言映像収録など、スタッフ一同けんめいに奮闘しています。戦争を防ぐと一言にいいますが、それには戦争が民間人にとっていかなるものだったかを知ること、学ぶことが先決で、その営為が、これからの平和を確かなものにするはずだからです。
 かくいう私も、追体験のお役に立ちそうな三冊を出すことになりました。[1]はその昔、いわさきちひろさんの絵でまとめた戦中の物語『ゆびきり』で、2月中に新日本出版社から。1、2カ月遅れで[2]が『東京空襲下の生活日誌──銃後が戦場となった10カ月』(編・東京新聞出版部)、[3]は『私の東京平和散歩』(仮題・新日本出版社)と続きます。
 ケイタイの普及で、必要な本ほど苦戦する状況ですが、「国防軍」に「集団的自衛権」「憲法改正」などの主張が声高になりつつある現在、いつか来た道入りはまっぴらごめん。「忘れない、諦めない、無力ではない」と自分にいいきかせながら、皆さんとご一緒に平和のバトンを次代に、と思う日々です。

2012年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.21より)

ハロラン氏のこと、そして……

 私事で恐縮だが、『ハロランの東京大空襲』が新日本出版社から刊行されたのは、この春だった。
 ハロラン氏は、太平洋戦争の末期、東京を爆撃したB29の搭乗員だった。22歳。日本軍機との戦闘で被弾した機から、パラシュートで降下し、群衆から袋叩きにされたあと東京憲兵隊本部の独房へ。そこで3月10日の大空襲に遭遇する。
 やっと一命を取りとめるも、次は上野動物園(?)で見せしめの虐待後、大森の捕虜収容所で終戦を迎えたという。
 B29の搭乗員は、私どもにとっては加害者だが、氏は大空襲の被害者でもある。当時の自分の足跡を確認したいと来日した氏の東京案内に参加したことから、氏との交流が始まった。当センターの開館式には、自費で来日して挨拶をしてもらい、次はこちらからアメリカのお宅で聞き取りをするなど、友好関係が深まった。
 氏は何度か来日し、センターの増築時から毎年200ドルの小切手を送ってくれるようになった。しかし、爆撃については「命令に従ったまでで、謝罪はできない」という。戦争をめぐる加害と被害との関係は、ついに和解に至ることなく平行線のまま、氏は昨年89歳で亡くなった。
 拙著はその交流の記録なのだが、反響は大きかった。ごく最近も、読者の1人から現金書留便が事務局へ届いた。
 「戦災センターの維持費として、ハロラン氏に替わって、今年から、息の続く限り届けたいと思います」
 岩国市に住む64歳の男性で、2万円が同封されてあった。「息の続く限り」の1行に、ああ、こういう人もいてくれるんだと、胸が熱くなった。開館から10年、当センターは平和を願う内外の皆さんのご支援で、内容をさらに充実させ、これからの展望を開きたいと思う。

2012年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.20より)

開館10周年で、新たな1歩へ
手と手を結びさらに支援の輪を

 この3月10日で、戦災資料センターも、開館10周年を迎えます。
 おかげさまで、来館者はすでに10万人を超えました。若い研究者たちの活動拠点にもなり、さまざまな成果を挙げつつあります。たとえばDVDブック『東京・ゲルニカ・重慶』を岩波書店から、ビジュアルブック『語り伝える東京大空襲』(全5巻)、さらに個人的に『ハロランの東京大空襲―B29捕虜の消せない記憶』(10頁参照)を、共に新日本出版社から刊行し、証言映像プロジェクトも着々と進んでいます。
 東京大空襲・戦災の語り継ぎと研究は、10年の実績を踏まえて、新たな1歩を―というところで、難問に直面しました。
 昨年春の東日本大震災です。天災は人災に移行し、原発による未曾有の大事故は放射能の飛散で、私たちの日常を「非日常」に変えてしまいました。センターもその影響により、年ごとに増加していた修学旅行生徒らの来館が全国的にキャンセル続き、昨年の来館者半減という非常事態を迎えました。目下、徐々に回復中ですが、このピンチをどう乗りきって、新たな展開へつなぐかが、ことしの課題です。
 センターを支える皆さんは、70代後半がもっとも多く、「開館10年まではなんとかするが、そこまでに」の声を耳にします。しかし、国会に憲法審査会が始動したこの時期に、平和への種まき事業を減速させるわけにはいきません。維持会員ならびに協力者は共に手を結び、センター支援の輪を、さらに広げていただきたいのです。
 かくいう私も、この3月末で80歳。大役も潮時かなとひそかに思っていましたが、もうひとふんばりと心しています。よろしくお願いする次第です。

2011年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.19より)

これまでの実績を踏まえて
来春は開館10年の節目です

 私どもの戦災資料センターも、来年で開館10年の節目を迎えます。
 寒空の下での開館式が、昨日のことのように思い出されます。東京大空襲の惨禍の継承を掲げて、民間募金に踏みきったものの、雲をつかむような話でした。にもかかわらず、皆さんのご芳志で見事に竣工した時には、胸に溢れるものがありました。
 全国各地からの来館者は、もう少しで10万人です。それが急に足踏み状態となりました。東日本大震災の影響で、東京への修学旅行がキャンセル続きの激減。財政的にもかなりの打撃ですが、目下、来年度の予約が増えつつあるのは救いです。
 これまで、年に平均1万人余の来館者を迎えたことになります。「炎の夜」の10万人もの声なき声を、けんめいに語りついで、10年近くを要したことを考えますと、そのいのちの重みに、目がくらむような気がします。しかし、年ごとに増す修学旅行生徒への継承は、未来世代への、平和の種まき仕事かもしれません。
 「死んだ人たちの分まで、私たちは生きなければいけないのです。過去は変えられません。でも、これからの未来を変えることはできます。それは東京大空襲を通して、今の私たちがどうするかにかかっているのです」
 そんな中学生の感想文を読むと、平和の種が、かれらの心に届いたことがわかります。しっかりと根をおろし、それぞれの個性ある発芽期が、これまでの実績を踏まえた来春からの期待であり課題です。
 道理に感動が加われば、人は変わるのです。ましてや10代の多感な思春期には、一冊の本、一本の映画ででも、心の震える瞬間があります。それがその人の「初心」になるのだとすれば、当センターとの出逢いは、平和への主体的な糧にもなりましょう。
 さらなるご支援を、お願いする次第です。

2011年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.18より)

次世代への平和のバトン
「語り伝える東京大空襲」の五冊本です

 ビジュアルブック『語り伝える東京大空襲』(全5巻・新日本出版社)が、この2月末で完結します。
 戦後生まれの人たちが、国民の8割にも及び、内外の平和が揺らいできた現在、当センターは戦争・空襲の惨禍をくり返すまじの決意で、本シリーズのまとめに総力をあげました。東京大空襲・戦災のあの日あの時と、その前後のいきさつまで検証すべく、[1]戦争・空襲ヘの道、[2]はじめて米軍機が頭上に、[3]10万人が死んだ炎の夜、[4]焼きつくされた町と人びと、[5]いのちと平和の尊さを、の5冊で構成されています。
 最新の研究成果をもりこみ、子どもにもわかりやすい文章で、豊富な写真と図版のオールカラー・B5版上製、各巻定価2,310円(税込)です。出版界不況の折からまさに画期的な大企画で、特に全国の学校図書館への期待をこめました。これぞ次世代への平和のバトンとして、ぜひ、ご活用をお願いする次第です。こちら事務局でも受付けています。

2010年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.17より)

楽しく意義ある散策プランを
世界一のツリーがすぐそばに

 地下鉄住吉駅(半蔵門線)で下車した私は、二つの運河が交差するクローバー橋を渡って、センターへと歩きます。15分ほど。途中で水遊びの子どもを見たり、コーヒーを飲んだりで、なかなかの散歩道です。
 来館者に、帰途にはぜひと推せんしているのですが、先頃、グループできた皆さんは、「この後は東京スカイツリーを見にいきます」との笑顔に、ああ、なるほどと思いました。
目下、押上一丁目に建設中のツリーは、完成すれば世界一の高さの634メートル。すでに半分を越えて展望台の工事中ですが、その迫力たるや天を衝くすごさです。休日などカメラ持参の見物人多数に、墨田区はあわてて仮設トイレを設置。この人たちの一部でも、センターへ足を伸ばしてくれればいいのですが…。
 すぐ近くのクローバー橋はむろんのこと、センターと慰霊碑巡りもできて、さらにツリーへと、楽しくて有意義な散策コースプランは、いかが。

2010年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.16より)

語り継ぎのカナメの持続に
維持会員を一人でも多く

 戦後も65年。大きな節目を迎えました。東京大空襲の直接の語り継ぎは、限界に近づいたといえます。東京空襲を記録する会が結成されてからも40年、当時30代だった私も、男性の平均寿命に迫りました。
 これからは追体験の時代に入るわけで、語り継ぎのカナメともいうべき当センターの意義と役割が、より重くなりました。にもかかわらず、センターを支える維持会員の今後の減少が、とても気がかりです。
 センターの存在が周知されるにつれて、修学旅行の生徒たちは、年ごとに増えています。これは素晴らしいことです。平和の種まき作業をずっと持続させるために、「維持会員を一人でも多く!」と、願っています。歴史的な節目のことしが、会員倍増の年になれば…。といいましても、一人が一人でいいのです。身近な人たちに、お声をかけてくださって、まずはお一人を。よろしくお願いする次第です。

09年7月5日(戦災資料センター・ニュース No.15より)

無差別爆撃の実相と課題に迫って
猫の語りもあるDVDブックの刊行です

 猫ブームですが、たぶん教師らしいポーポキ猫と子猫ミミの対話で、「空襲の始まり」から経過と現状と、「空襲をなくすには」までのDVD付き書籍が、7月中旬に出ます。
 当センター編による『岩波DVDブック、東京・ゲルニカ・重慶、−−空襲から平和を考える』(価格4620円)で、追体験の時代を迎えての意義ある集大成です。
 無差別爆撃の起点のゲルニカから重慶、イギリス、ドイツ、東京・日本への空襲の実相に、各国での復興や補償問題にも。さらに記録や伝承の現状や課題をも含めて、と書くと、お固い本かと受けとられそうですね。いいえ、ジュニア向けの映像に、写真、資料などがどっさりで、スタッフ一同、まとめに全力投球しました。
 どんな本なのか。少々高いのですが、手にしていただければ・・・。また、もよりの図書館でのリクエストをはじめ、中学・高校・大学にご推せんいただければ幸せです。

09年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.14より)

石の上にも7年
語りつぐ平和の思い

「戦災資料センターは、何年になりますか?」
某所で、ある人から尋ねられました。
「この春で、オープンから7年ですよ」
「よくやってますね。だって国からも都も区も、援助はゼロでしょう。2、3年でつぶれるという声を、かなり聞きましたよ」
「えっ、そうだったんですか。そりゃ知らなかった。石の上にも7年ですよ」
私は苦笑しましたが、当センターの維持と運営は、決してラクではありません。参観者はもちろんのこと、友の会や維持会員の熱いご支援と、創意ある企画力とで、弧塁を守っているのです。でも、皆さんの高齢化と経済危機の影響は、決して小さくはなく、ことしは特に友の会と維持会員を一人でも多く、と願っています。
「完全に民間で運営されている施設が、ほかの何者の制約を受けることなく、その役目を守り続けてほしい」と、感想文にもありましたが、語りつぐ平和の思いをここから、と思うことしきりです。

08年7月10日(戦災資料センター・ニュース No.13より)

「書いてみます話もします」
−こわされた家族の記憶−

 先頃、来館されたある女性から、「家族の崩壊」なる体験記が送られてきました。
 当時、深川の白河町に住んでいた彼女は13歳。火の海なかを、避難先である三ツ目通り沿いの味噌屋末広ビルに逃げましたが、そこも危険となって、近くの工場内へ。父と一緒になんとか助かったものの、母、姉、妹3人と弟さんを亡くしたのです。
 4日後、ビルの地下室から掻き出された家族との対面のくだりは、あまりにも悲惨で胸が痛くなるほど。次いで、6月に土浦の予科練にいたお兄さんが、やはり空襲で死に、7人もの家族を失いました。体験記のいくつかの箇所を、「もっとくわしく」と申し上げましたら、やってみますとのこと。そして、センターでの語り部も承諾されました。
 書いてみます、話もしますと決意された彼女は76歳。センター来館がきっかけで、たのもしいお話です。戦争・空襲のない未来のために、ひとふんばりしていただきたいものです。

08年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.12より)

センター二期目へ新しい試みを
次世代の「出番」いろいろと

 昨年はデンマークを旅しましたが、首都にある「抵抗博物館」に、感銘を受けました。ナチ占領下の暗黒時代をテーマにしている館の解説者は、コペンハーゲン大学から派遣された学生でした。現代っ子でも、学んで、立派に語り部役になれるのです。大学の姿勢にも考えさせられました。
 当センターも、開館から6年。なんとかの5ヵ年計画ではないけれど、増築も達成し、これより第二期に入ります。体験者は高齢化し、残り時間が少なくなりました。5年後を考えますと、いよいよバトンタッチで、後継者問題が大事とわかっていても、こればかりはスンナリと行きません。
 しかし、その一つの試みが、特別展「VOICE−知らない世代からのメッセージ」で、よかったと思います。また次を企画中ですが、当センターを活用して、後継者たる次世代の「出番」に何がどうできるか。こうしてみたらああしたら…の声を、ぜひお寄せくださいますように、期待しています。

07年7月20日(戦災資料センター・ニュース No.11より)

増築歓迎の声多く
都民の戦禍を明日へ伝えて

 この三月に増築完成、リニューアルオープンした当センターは、おかげさまで新しいスタートとなりました。
 資料・展示室はずっと充実し、会議室も倍増しましたので、全国からの修学旅行生を受け入れやすくなりました。最新の映像設備も、迫力があると大好評です。
 来館したみなさんの感想を、備えつけのノートで拝読していますが、増築を歓迎する声は多く、毎年来て、これが三度目という方もいます。話には聞いていたが、「あまりのすごさに驚き」の声もあれば、世界の無差別爆撃の歴史を、展示にぜひの要望も。…
 また、ある男性は、近くに仕事があって、「たまたま目に入った」ので立ち寄ったが、歴史の事実をしっかり知ることが同じ過ちをおこさないことだと思い「平和や命の尊さを忘れかけた時、又訪れたい」と。平和憲法も危うくなりかけた今、決して忘れてはならない都民の戦禍を、確認していただけたらなによりです。また、それぞれのご感想を各新聞の投書らんにぜひと、願っています。

07年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.10より)

この平和といのちのバトンをきちんと手渡そう
センターの増築完成、リニューアルへ

 くりかえし我れ叫びたし 再たび
 おかしてはならじ 戦争の愚を

 三人のお子さんを、「炎の夜」で失った森川寿美子さんの一首です。その森川さんがあの世に旅立たれた時を同じくして、戦災資料センターの増築工事完了。再開となりました。
増築募金をお寄せくださった多くの皆さん、呼びかけ人の方々、工事に苦労された方々に、心からの御礼を申し上げます。
 おかげさまで、センターはほぼ倍増し、特別展示も含めて、3月1日からリニューアル致します。開館から5年、新資料も集まり、若い研究者たちも育ってきましたので、より充実した体制で、維持と運営、発信が可能になりました。
 といいましても、どこからかの助成があるわけではなく、全くの民立民営ですから、まだまだの「綱渡り」です。維持会員を一人でも増やして、支援の輪をさらに…と願っています。平和といのちのバトンを、未来世代にきちんと手渡すために。

06年7月10日(戦災資料センター・ニュース No.9より)

語り継ぐ要(かなめ)の場を、しっかりと
新しい時代のために

 「新聞で増築募金のことを知りました。つきましては500万円を、お送りしたいと思います」という電話を受けた事務局の女性は、びっくり仰天。「どうかなさいましたか?」と、問いかけられてしまったそうです。
 京都にお住まいのUさんは、先頃ご夫君を亡くし、その遺志をということでした。ご夫君は東京大空襲の「炎の夜」に、陸軍の軍医少尉だったのです。旧本所区の中和国民学校講堂内で救急治療に当たりましたが、その惨状たるや、一般市民、婦女子の「戦場」だった、と記録しています。その体験が、医師として生きる原点になったのでしょうか。ご好意に胸が熱くなりました。
 センターは、いよいよ増築工事入りしますが、募金のほうは、もう一息のところ。新築4年で増築とは、夢にも思いませんでしたが、ぜひにという要望があればこそです。東京大空襲・戦災を語り継ぐ要(かなめ)を、しっかりと、より充実したもので、確保したいと思います。

06年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.8より)

いよいよこれからです
若い人の「想像力」にかけて

 戦後も61年を迎えました。戦禍の語りつぎは、いよいよこれからが大事だと思います。
 ほどなくして、直接の体験が、追体験の時代に入るからです。追体験には民間人の立場での記録や資料が不可欠で、記憶を記録に、その記録を集合化する必要があります。当センターの意義はさらに重くなるわけですが、先頃見えた20歳の女性が、「私たち戦争を知らない世代には義務があります」と、感想ノートに書いてくれました。
 それは、「この戦争について知る義務であり、考える義務、語りついでいく義務、そして、平和を守る義務です。そのためには、まず想像すること。あの頃をけんめいに生きた方たちの毎日を、気持ちを想像することが先決です」と。
 いい言葉ですね。事務局一同、どんなに励まされたかわかりません。そして、このたびNHK放送文化賞の受賞となり、増築募金もみなさんの熱いご支援で、もう一息のところ。東京での平和学習には、ぜひ当センターへと呼びかけています。

05年8月1日(戦災資料センター・ニュース No.7より)

後世代の平和のために

 石の上にも三年といいますが、当センターも開館して三年。全国的にその存在が知られてきました。関西や東北から、修学旅行の生徒たちが多くなったのもうれしい悲鳴ですが、何分にも手ぜまなのが、悩みのタネです。
 そこで、この際、思い切って隣接地に増築したら、の声が出てきました。会議室を倍ほどに広げて、さらに展示や資料面の充実をはかれと。しかし、厳しい状況下に増築募金をお願いするのはどんなものか、と何度かの討論を重ね、やはり今しかないの結論になりました。その呼びかけ人として、社会的に著名な方々が加わり、女優の吉永小百合さんは、賛同の立場から、心のこもったメッセージをくださいました。当センターの意義と、これまでの実績によるものといえましょう。
 皆さんには、たび重なるお力添えに加えて、恐縮のきわみですが、後世代の平和のために、熱いご支援をお願いする次第です。

05年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.6より)

あの日、あの夜から60年
伝えよ学べ今こそ

 戦後60年という、歴史的な節目を迎えました。東京大空襲「炎の夜」からの60年ももうすぐです。
 人間の体験は、60年単位で「歴史」に移行するといわれています。とすると、当時、人の子の親だった方の語りつぎは、限界に近づきつつあるということ。体験者がいなくなった後は資料や記録を活用しての追体験による知性に頼らざるをえませんが、現在の東京には、公立の戦災記念館もなければ、平和公園もありません。
 戦争をふせぐには、戦禍の実態を知らねばならず、小さい者や弱い者の立場で学ぶべきです。昔も今も国の内でも外でも、かれらが常にもっとも深刻な犠牲者だからです。災害は忘れた頃にやってくる、といいますが、戦火も同じで、「知っているなら伝えよ、知らないなら学べ」の正念場に来た、と痛感しています。知ること学ぶことが、ジワジワヒタヒタと迫ってくる土石流への、くさびの一つにもなりましょう。
 そういう意味で、民立民営の当センターの存在意義が、ますます重さを増してきました。いっそうのこ支援をお願いする次第です。

04年8月1日(戦災資料センター・ニュース No.5より)

今こそ平和のバトンを
過去は未来のために

 来館者が2万5千人に近づきつつあります。そのうち、中学生の修学旅行を含めて、団体の方が7割近くです。後世代への継承という点で、これはとても心強いことではないでしょうか。
 同時に個人が増えてくれるといいのですが、感想ノートを読んでいましたら、こんな意見がありました。「自衛隊のイラク行きなどにとやかくいう暇があったら、語りつぎをしっかりやれ。どうせ、なるようにしかならないのだから…」私どもへの激励なのでしょうが、匿名です。お名前とアドレスがわかれば、なんのために東京大空襲の惨禍を訴えているのかを、わかっていただきたいと思いました。
 過去は、未来のためにあるのです。戦時下の都民の惨禍を語り伝えるのは、未来の平和のためであって、単に歴史を後ずさりすることではありません。戦後が“銃後”に移行しつつある現在に対し、「なるようにしかならない」では、若い世代は決して納得しないでしょう。
 民衆の戦禍を語り継ぐ者に、必要不可欠なのは平和のバトンです。二度と戦禍を繰り返すまじの、熱い思いをこめたバトンです。戦後生まれが75%にも達した今、戦争を阻止するにはその実態を知らねばならず、当資料センターの存在と意味がますます重くなってきました。

04年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.4より)

平和のバトンを手渡すために
迷彩色の曲がり角で

 当センターも、開館から三年目を迎えようとしています。この問残念ながら、私たちの願いとは逆行する事態が進行中です。戦争と暴力の暗雲がたちこめ、目本もまた迷彩色の曲がり角で、憲法九条の危機を恐れるのは、私一人ではないでしょう。
 センターを訪れる人たちの思いも、少し変わってきました。感想のノートを熟読していますが、共通点は東京大空襲の実態についての大衝撃です。かつての戦争が、一般民衆に強いた犠牲の深刻さを、等しく心に刻んでいます。そして、その過去を現在、未来に重ね合わせる視点が、最近のきわだった特徴でしょうか。
 これは、とても大事なことだと思います。オブラートに包まれた戦争の本質は、戦争をやる側ではなく、やられる側の小さい者や弱い者の立場で、事実をしっかり見抜きたいもの。後世代に平和のバトンを手渡すためにも、もうひとまわり、参観者が増えてくれることを期待しています。

03年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.2より)

ああ、よかった…と
開館1周年に思うこと

 開館から、まもなく1周年を迎えようとしています。
 なにしろ初めての経験ですから、スタッフ一同、無我夢中できたという感じです。この原稿を書いている現在、参観者は1万300人をこえました。小さな建物なのに、これは予想外の数で、びっくりしています。
 参観者の内訳ですが、地元や都内はもちろんのこと、北海道から沖縄まで全国各地から。そして、次代を担う小中高生たちが1割以上を占めます。かれらは修学旅行で、あるいは総合学習や学芸会、文化祭のテーマなど、目的はいろいろですが、ひたむきに学んでいる姿が特徴的です。
 来館された皆さんは、なにをどのように感じとってくれたのでしょうか。たまたま、手元に1通の葉書があります。息子さんと一緒にこられた70歳の女性で、東京大空襲で生き残ったと書いてあります。被災体験を語りついで行こうと思いつつも、個人の力では限界があって、息子さんをつれて来られたとのこと。展示やビデオを観たあと、息子さんいわく。
「お母さん、どうして助かったの?」
 その問いかけに、猿江町での惨憺たる状況を思い出したそうです。
 戦後世代の息子さんは、それこそ初めて、母の戦争の苦労を感じとったのではないでしょうか。母は万感胸に迫るものがあって、その時、母と子の心を結ぶきずなが、確認できたように思われます。
 感想ノートに、それぞれの思いを書いてくださった方々は干人に近く、戦災体験のある方はその思いを綴り、戦後世代は追体験の重さを、そして小中高生達は、平和の願いを切実に記しています。読んでいくだに胸が熱くなり、ああ、苦労してこのセンターを立ち上げてよかったとしみじみ思うのです。
 しかし、またふたたびキナ臭い状況となってきました。あの戦争で民衆はどのような犠牲を強いられたのか、その事実を語りついでいくことは、「いつかきた道」へのブレーキとなり、明日の平和への力に結び合うと信じて疑いません。この小さな平和の拠点が、やがて線となり面となりますように、ご支援をさらにお願いする次第です。

02年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.1より)

明日へのバックミラーとして開館にあたって一3月9日

 思えば、57年前の今夜午前0時8分から東京大空襲が始まった。爆撃はわずか2時間余だったが、東京の歴史と運命を大きく変えてしまった。罹災者は100万人を越え、尊い命を犠牲にした方は、10万人にものぼった。9日の夜まで灯火管制のもと、ひもじい食糧をわけあい、語り、笑い、溜息をつきながら朝を迎えるはずだった一人一人だった。それまでの戦史にはこれだけ短時間に10万人もの兵が死んだ例はない。民間人に向けての、人類始まって以来の大量無差別殺戮だった。その後は沖縄の南部戦線や、広島・長崎へとつづいていくわけです。
 死者は何も語る術をもっていません。かれらは私たちの心の中にしか存在しないのです。生き残った者とその後に生きてきた者が、犠牲者たちの無念さを引き継いで、未来を人間らしく平和に生きたいと思う。私は谷川俊太郎さんの詩の一節を思い出します。

  死んだ彼らが残したものは
  生きてるわたし
  生きてるあなた
  ほかには誰も残っていない
  ほかには誰も残っていない

 広島・長崎にはそれなりの記念館がある。沖縄には平和の礎があるが、東京にはない。私たち草の根の民間募金によって建てたこのセンターを起点にして、東京を始め全国の空襲の被害実態と、その詳細が分かるように資料を残していきたい。
 事実に即した資料とか、記録なしには歴史の検証はできません。センターは規模は小さくても、自動車のバックミラーのような役割で、後ろを見ながら安全を確認しつつ、前へ進むのです。後世代の皆さんは、ここを機に、戦争が起きた原因やプロセスまで独自に学んでほしい。昨年のアメリカにおけるテロ事件から、アフガンへの報復爆撃が繰り返されており、戦争はけっして過去形ではない。過去は未来のためにあるということを心に刻んで、本センターが東京大空襲の惨禍の語りつぎと、研究や学習の場として活用されることをのぞみたい。皆さんのご協力をお願いします。