早乙女勝元
1932年、東京に生まれる。12歳で東京大空襲を経験。働きながら文学を志し、18歳の自分史『下町の故郷』が直木賞候補に。『ハモニカ工場』発表後は作家に専念。ルポルタージュ『東京大空襲』がベストセラーになる(日本ジャーナリスト会議奨励賞)。1970年「東京空襲を記録する会」を結成し、『東京大空襲・戦災誌』が菊池寛賞を受賞。2002年、江東区北砂に「東京大空襲・戦災資料センター」をオープン、館長就任。主な作品に『早乙女勝元自選集』(全12巻/日本図書センター)『図説・東京大空襲』(以上河出書房新社)『ゆびきり』『その声を力に』(新日本出版社)『東京空襲下の生活日録』(東京新聞)『蛍の唄』(新潮文庫)など。

 

センター、新時代へ
 (戦災資料センター・ニュース No.34より)
 私のコラムも今回が最終回です。
 思えば、1970年に東京空襲を記録する会を起こしてより約50年、次いで民間募金による当センターの設立・開館からも17年。私もこの3月で87歳になり、体調面の都合から本年6月にて館長役を降りることとなりました。センターは新しい時代に移行しなくてはなりません。
 と、言いましても、突然プッツンといなくなるわけではありません。まだあの世に逝くわけにはいきません。私のライフワークたるテーマと、センターの主目的とは一体のものですので、その後もできるかぎりの協力をしていく所存です。
 よく講演先で「お若いですね」のお言葉をいただくのですが、若くないからそう言われるのであって、このところ目も耳もめっきり調子が悪く、足は容易に前に出てはくれません。80代の急坂を転げ落ちるような日々ですが、誰もが経験することで、仕方のないこととは思います。ポンコツだらけの身体となりましたが、私なりの発言と執筆は、生きているかぎり続けていくつもりです。
 今年の政局は重大な正念場を迎えております。迫りくる荒波が平和と逆行するからには、当センターの進路も無関係ではありません。これからも皆様と固く手を結んで、東京大空襲の惨禍を、二度と繰り返させぬ決意を発信して参りたいと思います。元号が変わるからといって、戦禍の歴史が帳消しになるわけではないのですから。
 これからもどうぞセンターをよろしくお願いいたします。

 

平和創造のパワーを
 (戦災資料センター・ニュース No.33より)
 昨年夏のさなかに、東京新聞から原稿依頼の電話がありました。夕刊連載の『この道』に登場はいかが、とのこと。そのコーナーは、大企業の社長さんや著名な文化人による自伝的な読み物で、著者に入れてもらえたのは幸せでしたが、私もついにそんなトシになったのかと、少々やるせない気がしました。
 しかし、当戦災資料センターを紹介するのには、願ってもいない機会です。現在のセンターの活動から遡り、私の生い立ちと四苦八苦の青壮年期をへて、また現在のセンターに着地する、という構成でなんとか書き上げました。連載第1回目で登場するのは、昨年夏の特別企画で活躍した若い世代です。センターの展示品にまつわる小話や、支えてくれたスタッフ、来館者との出会いや交流などを書き連ねながら人生の振り出しに戻るという、『この道』ではやや異色な連載だったかと思います。このほど連載分は、『その声を力に』の1冊にまとめました。
 思えば、これまで過ごしてきた人生の前半までは、折にふれて書いてきましたが、86年の生涯を振り返り、改めて俯瞰したのは初めてでした。人は悩みや迷いの渦中にいると、容易に理性を保ちにくいものですが、当時八方ふさがりかと思えたことに、光が見えてきたのは、余分な苦労を経てきた加齢のせいか、老いも捨てたものではないという気がします。
 書くことは、自分をつきつめることでもあります。夢中で走りつづけてきた過去を見つめ直すことで、残りの人生を自分らしく生きたいし、生きていてよかったといえる社会を、次世代に確実に手渡したいのです。
 この夏、戦争体験なしの来館者が、またたくさんセンターにやって来ます。当センターで平和創造のパワーを得られますように、いささかなりと、そのお役に立てれば・・・と今日もペンを走らせつつ願っております。

 

わかりやすさと、感動的な…
 (戦災資料センター・ニュース No.32より)
 当センターは開館16年。維持会員や協力者の皆さんは、ずっと空襲体験者が主力でしたが、これからは非体験者が中心にならざるを得ません。
 開館以来、初めての試練で、この大波を乗り切っていくためには、民主主義と社会正義に裏づけられた斬新な企画力が必要です。
 センターは目下、内外の知恵を結集した展示リニューアルの検討中ですが、体験のない人たちにも受け入れやすいわかりよさと、感動的な展示――追体験できる想像力を喚起できるような、とは私の願いです。
 しかし、限られた空間に、これを具体化するのは容易ではなく、さらに知恵を絞らなければなりませんし、予算も必要です。皆さん方のご支援をお願い致します。
 ことしは、憲法9条の重大な危機になるやと思われますが、当センターは戦争否定と平和への希求を、積極的に発信して参りますので、よろしくどうぞ。

 

開館15年で想うこと
 (戦災資料センター・ニュース No.31より)
 ことし、東京大空襲・戦災資料センターは、開館15年となります。日ごろの皆さんのご協力と、スタッフ一同に感謝いたします。毎年好評の夏休み特別企画も近づき、てんやわんやの日々かと思います。
 さて、その特別企画ですが、昨年夏にたまたま手伝いに来ていた東京成徳大学の学生二人が、これをきっかけに空襲に興味を持ち、大学で自ら空襲展を開催し、反響を呼んでいるという記事が4月の朝日新聞東京版で取り上げられました。この空襲展はなかなか好評だったようで、孫のような世代の活躍に私自身が大変おどろきました。種はまかなければ実りませんが、はぐくむ土壌もまた必要です。私どものセンターが15年をへて、確実にその場所になりつつあることを実感し、養分を与えてくれた皆様にも感謝する次第です。
 その昔、よく口ずさんだ歌の一節に、「死んだ親が後に残す宝物は何ぞ…」とありましたが、今にして思えば、宝物は平和憲法だったのだと思います。私の代でそれを手放すわけにはいきません。戦争はまっぴらごめんで、戦争につながる道には孫たちの手を借りてでも、NOの声を上げたいと思います。
 それこそ、「千載に悔いを残さぬために」と想う日々です。当センターは、目下リニューアル募金と工事入りするところです。私も85歳。次世代の活躍を見届けるまで、もうひとふんばりです。

 

開館15年、維持募金のお願い
 (戦災資料センター・ニュース No.30より)
 この三月で、「東京大空襲・戦災資料センター」(以下センターと略す)は開館15年を迎えます。皆さんのお力添えによって、いのちと平和の尊さを、17万人余の来館者に継承できましたことに、心から御礼を申し上げます。
 15年の実績の上に、新たな課題がいくつか。その一つは来館者をより安全に、博物館機能を充実させるべく、構造変えを含むリニューアルの必要性に迫られている。二つは激動する内外の情勢を踏まえて、展示を見直す時にきたこと。しかし、維持会員は増えることなく、財政状況は厳しくなりつつあります。
 そこで、まことに心苦しい次第ですが、当センターの社会的意義をご理解いただきまして、特別のご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
また、身近な人にお声をかけて下さいまして、維持会員と支持協力者を、一人でも多く募っていただければ幸せです。

 

みなさんの友情にありがとう、と
 (戦災資料センター・ニュース No.29より)
 当センター初期の語り継ぐ集いで、作家の西村滋さんに講演をお願いしたことがある。大変好評だったが、その西村さんの訃報が届いた。漫画チックな似顔絵の上に、こう書かれている。

  生きる よろこびを/食べさせていただきました
  みなさんの友情を/おいしく頂きました
  ありがとう さようなら

「献体2016年5月21日」を書き入れるだけの書式で、享年91、あて名まで本人の手書きである。ぬかりなく生前に用意していたものと思われる。映画化された名作『お菓子放浪記』(講談社文庫)を始め、生涯を通じて戦争孤児のことだけを書き続けてきた氏の旅立ちに、感無量だった。
 たまたま時を同じくして、当センター監修での『東京復興写真集1945~1946』(勉誠出版・価1万円+税)が刊行された。戦後の廃墟から立ち上がった人びとの日常を伝える大写真集だが、この本にも焼け跡や駅構内に群がる戦争孤児のスナップがかなりある。極端な飢餓の時代を、かれらはどう生き抜いたことだろう。私も飢えていた1人だったから、著者自身が孤児だった西村作品に共感し、自作のような愛着を覚えた。わが家での話し合いで、朝を迎えたこともある。
「戦争は絶対にダメだよ。戦争への道にはすぐにブレーキを、ストップを!」
そんな西村さんの声が遠くから聞こえてくるかのようである。西村さん、安らかに眠らずに、子どもたちの未来と、当センターの行く末を、あの世から見守っていてね。
 さようならは、いわないことにします。

 

センターの役割さらに重く
 2013年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.22より)
 戦後という言葉もぴんときませんが、ことしは68年です。あの年に生まれた赤ちゃんも古希2年前で、戦後70年の節目が急接近してきました。
 人間の体験は60年で歴史に移行するそうですが、その説に10年を上乗せすれば、戦争はこりごりだという人の語りや主張は、ほぼ終了です。そして、戦争を知らない世代ばかりになるわけで、その後に生きる人びとに必要不可欠なのは、追体験による知性ではないでしょうか。
 都民の戦禍追体験のカナメたる当センターの役割はさらに重く、目下、中・高校生にもわかりやすい特別展示や、空襲体験者の証言映像収録など、スタッフ一同けんめいに奮闘しています。戦争を防ぐと一言にいいますが、それには戦争が民間人にとっていかなるものだったかを知ること、学ぶことが先決で、その営為が、これからの平和を確かなものにするはずだからです。
 かくいう私も、追体験のお役に立ちそうな三冊を出すことになりました。[1]はその昔、いわさきちひろさんの絵でまとめた戦中の物語『ゆびきり』で、2月中に新日本出版社から。1、2カ月遅れで[2]が『東京空襲下の生活日録──銃後が戦場となった10カ月』(編・東京新聞出版部)、[3]は『私の東京平和散歩』(仮題・新日本出版社)と続きます。
 ケイタイの普及で、必要な本ほど苦戦する状況ですが、「国防軍」に「集団的自衛権」「憲法改正」などの主張が声高になりつつある現在、いつか来た道入りはまっぴらごめん。「忘れない、諦めない、無力ではない」と自分にいいきかせながら、皆さんとご一緒に平和のバトンを次代に、と思う日々です。

 

ハロラン氏のこと、そして……
 2012年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.21より)
 私事で恐縮だが、『ハロランの東京大空襲』が新日本出版社から刊行されたのは、この春だった。
 ハロラン氏は、太平洋戦争の末期、東京を爆撃したB29の搭乗員だった。22歳。日本軍機との戦闘で被弾した機から、パラシュートで降下し、群衆から袋叩きにされたあと東京憲兵隊本部の独房へ。そこで3月10日の大空襲に遭遇する。
 やっと一命を取りとめるも、次は上野動物園(?)で見せしめの虐待後、大森の捕虜収容所で終戦を迎えたという。
 B29の搭乗員は、私どもにとっては加害者だが、氏は大空襲の被害者でもある。当時の自分の足跡を確認したいと来日した氏の東京案内に参加したことから、氏との交流が始まった。当センターの開館式には、自費で来日して挨拶をしてもらい、次はこちらからアメリカのお宅で聞き取りをするなど、友好関係が深まった。
 氏は何度か来日し、センターの増築時から毎年200ドルの小切手を送ってくれるようになった。しかし、爆撃については「命令に従ったまでで、謝罪はできない」という。戦争をめぐる加害と被害との関係は、ついに和解に至ることなく平行線のまま、氏は昨年89歳で亡くなった。
 拙著はその交流の記録なのだが、反響は大きかった。ごく最近も、読者の1人から現金書留便が事務局へ届いた。
 「戦災センターの維持費として、ハロラン氏に替わって、今年から、息の続く限り届けたいと思います」
 岩国市に住む64歳の男性で、2万円が同封されてあった。「息の続く限り」の1行に、ああ、こういう人もいてくれるんだと、胸が熱くなった。開館から10年、当センターは平和を願う内外の皆さんのご支援で、内容をさらに充実させ、これからの展望を開きたいと思う。

 

開館10周年で、新たな1歩へ
手と手を結びさらに支援の輪を
 2012年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.20より)
 この3月10日で、戦災資料センターも、開館10周年を迎えます。
 おかげさまで、来館者はすでに10万人を超えました。若い研究者たちの活動拠点にもなり、さまざまな成果を挙げつつあります。たとえばDVDブック『東京・ゲルニカ・重慶』を岩波書店から、ビジュアルブック『語り伝える東京大空襲』(全5巻)、さらに個人的に『ハロランの東京大空襲―B29捕虜の消せない記憶』(10頁参照)を、共に新日本出版社から刊行し、証言映像プロジェクトも着々と進んでいます。
 東京大空襲・戦災の語り継ぎと研究は、10年の実績を踏まえて、新たな1歩を―というところで、難問に直面しました。
 昨年春の東日本大震災です。天災は人災に移行し、原発による未曾有の大事故は放射能の飛散で、私たちの日常を「非日常」に変えてしまいました。センターもその影響により、年ごとに増加していた修学旅行生徒らの来館が全国的にキャンセル続き、昨年の来館者半減という非常事態を迎えました。目下、徐々に回復中ですが、このピンチをどう乗りきって、新たな展開へつなぐかが、ことしの課題です。
 センターを支える皆さんは、70代後半がもっとも多く、「開館10年まではなんとかするが、そこまでに」の声を耳にします。しかし、国会に憲法審査会が始動したこの時期に、平和への種まき事業を減速させるわけにはいきません。維持会員ならびに協力者は共に手を結び、センター支援の輪を、さらに広げていただきたいのです。
 かくいう私も、この3月末で80歳。大役も潮時かなとひそかに思っていましたが、もうひとふんばりと心しています。よろしくお願いする次第です。

 

これまでの実績を踏まえて
来春は開館10年の節目です
 2011年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.19より)
 私どもの戦災資料センターも、来年で開館10年の節目を迎えます。
 寒空の下での開館式が、昨日のことのように思い出されます。東京大空襲の惨禍の継承を掲げて、民間募金に踏みきったものの、雲をつかむような話でした。にもかかわらず、皆さんのご芳志で見事に竣工した時には、胸に溢れるものがありました。
 全国各地からの来館者は、もう少しで10万人です。それが急に足踏み状態となりました。東日本大震災の影響で、東京への修学旅行がキャンセル続きの激減。財政的にもかなりの打撃ですが、目下、来年度の予約が増えつつあるのは救いです。
 これまで、年に平均1万人余の来館者を迎えたことになります。「炎の夜」の10万人もの声なき声を、けんめいに語りついで、10年近くを要したことを考えますと、そのいのちの重みに、目がくらむような気がします。しかし、年ごとに増す修学旅行生徒への継承は、未来世代への、平和の種まき仕事かもしれません。
 「死んだ人たちの分まで、私たちは生きなければいけないのです。過去は変えられません。でも、これからの未来を変えることはできます。それは東京大空襲を通して、今の私たちがどうするかにかかっているのです」
 そんな中学生の感想文を読むと、平和の種が、かれらの心に届いたことがわかります。しっかりと根をおろし、それぞれの個性ある発芽期が、これまでの実績を踏まえた来春からの期待であり課題です。
 道理に感動が加われば、人は変わるのです。ましてや10代の多感な思春期には、一冊の本、一本の映画ででも、心の震える瞬間があります。それがその人の「初心」になるのだとすれば、当センターとの出逢いは、平和への主体的な糧にもなりましょう。
 さらなるご支援を、お願いする次第です。

 

次世代への平和のバトン
「語り伝える東京大空襲」の五冊本です
 2011年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.18より)
 ビジュアルブック『語り伝える東京大空襲』(全5巻・新日本出版社)が、この2月末で完結します。
 戦後生まれの人たちが、国民の8割にも及び、内外の平和が揺らいできた現在、当センターは戦争・空襲の惨禍をくり返すまじの決意で、本シリーズのまとめに総力をあげました。東京大空襲・戦災のあの日あの時と、その前後のいきさつまで検証すべく、[1]戦争・空襲ヘの道、[2]はじめて米軍機が頭上に、[3]10万人が死んだ炎の夜、[4]焼きつくされた町と人びと、[5]いのちと平和の尊さを、の5冊で構成されています。
 最新の研究成果をもりこみ、子どもにもわかりやすい文章で、豊富な写真と図版のオールカラー・B5版上製、各巻定価2,310円(税込)です。出版界不況の折からまさに画期的な大企画で、特に全国の学校図書館への期待をこめました。これぞ次世代への平和のバトンとして、ぜひ、ご活用をお願いする次第です。こちら事務局でも受付けています。

 

楽しく意義ある散策プランを
世界一のツリーがすぐそばに
 2010年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.17より)
 地下鉄住吉駅(半蔵門線)で下車した私は、二つの運河が交差するクローバー橋を渡って、センターへと歩きます。15分ほど。途中で水遊びの子どもを見たり、コーヒーを飲んだりで、なかなかの散歩道です。
 来館者に、帰途にはぜひと推せんしているのですが、先頃、グループできた皆さんは、「この後は東京スカイツリーを見にいきます」との笑顔に、ああ、なるほどと思いました。
目下、押上一丁目に建設中のツリーは、完成すれば世界一の高さの634メートル。すでに半分を越えて展望台の工事中ですが、その迫力たるや天を衝くすごさです。休日などカメラ持参の見物人多数に、墨田区はあわてて仮設トイレを設置。この人たちの一部でも、センターへ足を伸ばしてくれればいいのですが…。
 すぐ近くのクローバー橋はむろんのこと、センターと慰霊碑巡りもできて、さらにツリーへと、楽しくて有意義な散策コースプランは、いかが。

 

語り継ぎのカナメの持続に
維持会員を一人でも多く
 2010年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.16より)
 戦後も65年。大きな節目を迎えました。東京大空襲の直接の語り継ぎは、限界に近づいたといえます。東京空襲を記録する会が結成されてからも40年、当時30代だった私も、男性の平均寿命に迫りました。
 これからは追体験の時代に入るわけで、語り継ぎのカナメともいうべき当センターの意義と役割が、より重くなりました。にもかかわらず、センターを支える維持会員の今後の減少が、とても気がかりです。
 センターの存在が周知されるにつれて、修学旅行の生徒たちは、年ごとに増えています。これは素晴らしいことです。平和の種まき作業をずっと持続させるために、「維持会員を一人でも多く!」と、願っています。歴史的な節目のことしが、会員倍増の年になれば…。といいましても、一人が一人でいいのです。身近な人たちに、お声をかけてくださって、まずはお一人を。よろしくお願いする次第です。

 

無差別爆撃の実相と課題に迫って
猫の語りもあるDVDブックの刊行です
 09年7月5日(戦災資料センター・ニュース No.15より)
 猫ブームですが、たぶん教師らしいポーポキ猫と子猫ミミの対話で、「空襲の始まり」から経過と現状と、「空襲をなくすには」までのDVD付き書籍が、7月中旬に出ます。
 当センター編による『岩波DVDブック、東京・ゲルニカ・重慶、--空襲から平和を考える』(価格4620円)で、追体験の時代を迎えての意義ある集大成です。
 無差別爆撃の起点のゲルニカから重慶、イギリス、ドイツ、東京・日本への空襲の実相に、各国での復興や補償問題にも。さらに記録や伝承の現状や課題をも含めて、と書くと、お固い本かと受けとられそうですね。いいえ、ジュニア向けの映像に、写真、資料などがどっさりで、スタッフ一同、まとめに全力投球しました。
 どんな本なのか。少々高いのですが、手にしていただければ・・・。また、もよりの図書館でのリクエストをはじめ、中学・高校・大学にご推せんいただければ幸せです。

 

石の上にも7年
語りつぐ平和の思い
 09年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.14より)
「戦災資料センターは、何年になりますか?」
某所で、ある人から尋ねられました。
「この春で、オープンから7年ですよ」
「よくやってますね。だって国からも都も区も、援助はゼロでしょう。2、3年でつぶれるという声を、かなり聞きましたよ」
「えっ、そうだったんですか。そりゃ知らなかった。石の上にも7年ですよ」
私は苦笑しましたが、当センターの維持と運営は、決してラクではありません。参観者はもちろんのこと、友の会や維持会員の熱いご支援と、創意ある企画力とで、弧塁を守っているのです。でも、皆さんの高齢化と経済危機の影響は、決して小さくはなく、ことしは特に友の会と維持会員を一人でも多く、と願っています。
「完全に民間で運営されている施設が、ほかの何者の制約を受けることなく、その役目を守り続けてほしい」と、感想文にもありましたが、語りつぐ平和の思いをここから、と思うことしきりです。

 

「書いてみます話もします」
-こわされた家族の記憶-
 08年7月10日(戦災資料センター・ニュース No.13より)
 先頃、来館されたある女性から、「家族の崩壊」なる体験記が送られてきました。
 当時、深川の白河町に住んでいた彼女は13歳。火の海なかを、避難先である三ツ目通り沿いの味噌屋末広ビルに逃げましたが、そこも危険となって、近くの工場内へ。父と一緒になんとか助かったものの、母、姉、妹3人と弟さんを亡くしたのです。
 4日後、ビルの地下室から掻き出された家族との対面のくだりは、あまりにも悲惨で胸が痛くなるほど。次いで、6月に土浦の予科練にいたお兄さんが、やはり空襲で死に、7人もの家族を失いました。体験記のいくつかの箇所を、「もっとくわしく」と申し上げましたら、やってみますとのこと。そして、センターでの語り部も承諾されました。
 書いてみます、話もしますと決意された彼女は76歳。センター来館がきっかけで、たのもしいお話です。戦争・空襲のない未来のために、ひとふんばりしていただきたいものです。

 

センター二期目へ新しい試みを
次世代の「出番」いろいろと
 08年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.12より)
 昨年はデンマークを旅しましたが、首都にある「抵抗博物館」に、感銘を受けました。ナチ占領下の暗黒時代をテーマにしている館の解説者は、コペンハーゲン大学から派遣された学生でした。現代っ子でも、学んで、立派に語り部役になれるのです。大学の姿勢にも考えさせられました。
 当センターも、開館から6年。なんとかの5ヵ年計画ではないけれど、増築も達成し、これより第二期に入ります。体験者は高齢化し、残り時間が少なくなりました。5年後を考えますと、いよいよバトンタッチで、後継者問題が大事とわかっていても、こればかりはスンナリと行きません。
 しかし、その一つの試みが、特別展「VOICE-知らない世代からのメッセージ」で、よかったと思います。また次を企画中ですが、当センターを活用して、後継者たる次世代の「出番」に何がどうできるか。こうしてみたらああしたら…の声を、ぜひお寄せくださいますように、期待しています。

 

増築歓迎の声多く
都民の戦禍を明日へ伝えて
 07年7月20日(戦災資料センター・ニュース No.11より)
 この三月に増築完成、リニューアルオープンした当センターは、おかげさまで新しいスタートとなりました。
 資料・展示室はずっと充実し、会議室も倍増しましたので、全国からの修学旅行生を受け入れやすくなりました。最新の映像設備も、迫力があると大好評です。
 来館したみなさんの感想を、備えつけのノートで拝読していますが、増築を歓迎する声は多く、毎年来て、これが三度目という方もいます。話には聞いていたが、「あまりのすごさに驚き」の声もあれば、世界の無差別爆撃の歴史を、展示にぜひの要望も。…
 また、ある男性は、近くに仕事があって、「たまたま目に入った」ので立ち寄ったが、歴史の事実をしっかり知ることが同じ過ちをおこさないことだと思い「平和や命の尊さを忘れかけた時、又訪れたい」と。平和憲法も危うくなりかけた今、決して忘れてはならない都民の戦禍を、確認していただけたらなによりです。また、それぞれのご感想を各新聞の投書らんにぜひと、願っています。

 

この平和といのちのバトンをきちんと手渡そう
センターの増築完成、リニューアルへ
 07年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.10より)
 くりかえし我れ叫びたし 再たび
 おかしてはならじ 戦争の愚を

 三人のお子さんを、「炎の夜」で失った森川寿美子さんの一首です。その森川さんがあの世に旅立たれた時を同じくして、戦災資料センターの増築工事完了。再開となりました。
増築募金をお寄せくださった多くの皆さん、呼びかけ人の方々、工事に苦労された方々に、心からの御礼を申し上げます。
 おかげさまで、センターはほぼ倍増し、特別展示も含めて、3月1日からリニューアル致します。開館から5年、新資料も集まり、若い研究者たちも育ってきましたので、より充実した体制で、維持と運営、発信が可能になりました。
 といいましても、どこからかの助成があるわけではなく、全くの民立民営ですから、まだまだの「綱渡り」です。維持会員を一人でも増やして、支援の輪をさらに…と願っています。平和といのちのバトンを、未来世代にきちんと手渡すために。

 

語り継ぐ要(かなめ)の場を、しっかりと新しい時代のために
 06年7月10日(戦災資料センター・ニュース No.9より)
 「新聞で増築募金のことを知りました。つきましては500万円を、お送りしたいと思います」という電話を受けた事務局の女性は、びっくり仰天。「どうかなさいましたか?」と、問いかけられてしまったそうです。
 京都にお住まいのUさんは、先頃ご夫君を亡くし、その遺志をということでした。ご夫君は東京大空襲の「炎の夜」に、陸軍の軍医少尉だったのです。旧本所区の中和国民学校講堂内で救急治療に当たりましたが、その惨状たるや、一般市民、婦女子の「戦場」だった、と記録しています。その体験が、医師として生きる原点になったのでしょうか。ご好意に胸が熱くなりました。
 センターは、いよいよ増築工事入りしますが、募金のほうは、もう一息のところ。新築4年で増築とは、夢にも思いませんでしたが、ぜひにという要望があればこそです。東京大空襲・戦災を語り継ぐ要(かなめ)を、しっかりと、より充実したもので、確保したいと思います。

 

いよいよこれからです
若い人の「想像力」にかけて
 06年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.8より)
 戦後も61年を迎えました。戦禍の語りつぎは、いよいよこれからが大事だと思います。
 ほどなくして、直接の体験が、追体験の時代に入るからです。追体験には民間人の立場での記録や資料が不可欠で、記憶を記録に、その記録を集合化する必要があります。当センターの意義はさらに重くなるわけですが、先頃見えた20歳の女性が、「私たち戦争を知らない世代には義務があります」と、感想ノートに書いてくれました。
 それは、「この戦争について知る義務であり、考える義務、語りついでいく義務、そして、平和を守る義務です。そのためには、まず想像すること。あの頃をけんめいに生きた方たちの毎日を、気持ちを想像することが先決です」と。
 いい言葉ですね。事務局一同、どんなに励まされたかわかりません。そして、このたびNHK放送文化賞の受賞となり、増築募金もみなさんの熱いご支援で、もう一息のところ。東京での平和学習には、ぜひ当センターへと呼びかけています。

 

後世代の平和のために
 05年8月1日(戦災資料センター・ニュース No.7より)
 石の上にも三年といいますが、当センターも開館して三年。全国的にその存在が知られてきました。関西や東北から、修学旅行の生徒たちが多くなったのもうれしい悲鳴ですが、何分にも手ぜまなのが、悩みのタネです。
 そこで、この際、思い切って隣接地に増築したら、の声が出てきました。会議室を倍ほどに広げて、さらに展示や資料面の充実をはかれと。しかし、厳しい状況下に増築募金をお願いするのはどんなものか、と何度かの討論を重ね、やはり今しかないの結論になりました。その呼びかけ人として、社会的に著名な方々が加わり、女優の吉永小百合さんは、賛同の立場から、心のこもったメッセージをくださいました。当センターの意義と、これまでの実績によるものといえましょう。
 皆さんには、たび重なるお力添えに加えて、恐縮のきわみですが、後世代の平和のために、熱いご支援をお願いする次第です。

 

あの日、あの夜から60年
伝えよ学べ今こそ
 05年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.6より)
 戦後60年という、歴史的な節目を迎えました。東京大空襲「炎の夜」からの60年ももうすぐです。
 人間の体験は、60年単位で「歴史」に移行するといわれています。とすると、当時、人の子の親だった方の語りつぎは、限界に近づきつつあるということ。体験者がいなくなった後は資料や記録を活用しての追体験による知性に頼らざるをえませんが、現在の東京には、公立の戦災記念館もなければ、平和公園もありません。
 戦争をふせぐには、戦禍の実態を知らねばならず、小さい者や弱い者の立場で学ぶべきです。昔も今も国の内でも外でも、かれらが常にもっとも深刻な犠牲者だからです。災害は忘れた頃にやってくる、といいますが、戦火も同じで、「知っているなら伝えよ、知らないなら学べ」の正念場に来た、と痛感しています。知ること学ぶことが、ジワジワヒタヒタと迫ってくる土石流への、くさびの一つにもなりましょう。
 そういう意味で、民立民営の当センターの存在意義が、ますます重さを増してきました。いっそうのこ支援をお願いする次第です。

 

今こそ平和のバトンを
過去は未来のために
 04年8月1日(戦災資料センター・ニュース No.5より)
 来館者が2万5千人に近づきつつあります。そのうち、中学生の修学旅行を含めて、団体の方が7割近くです。後世代への継承という点で、これはとても心強いことではないでしょうか。
 同時に個人が増えてくれるといいのですが、感想ノートを読んでいましたら、こんな意見がありました。「自衛隊のイラク行きなどにとやかくいう暇があったら、語りつぎをしっかりやれ。どうせ、なるようにしかならないのだから…」私どもへの激励なのでしょうが、匿名です。お名前とアドレスがわかれば、なんのために東京大空襲の惨禍を訴えているのかを、わかっていただきたいと思いました。
 過去は、未来のためにあるのです。戦時下の都民の惨禍を語り伝えるのは、未来の平和のためであって、単に歴史を後ずさりすることではありません。戦後が“銃後”に移行しつつある現在に対し、「なるようにしかならない」では、若い世代は決して納得しないでしょう。
 民衆の戦禍を語り継ぐ者に、必要不可欠なのは平和のバトンです。二度と戦禍を繰り返すまじの、熱い思いをこめたバトンです。戦後生まれが75%にも達した今、戦争を阻止するにはその実態を知らねばならず、当資料センターの存在と意味がますます重くなってきました。

 

平和のバトンを手渡すために
迷彩色の曲がり角で
 04年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.4より)
 当センターも、開館から三年目を迎えようとしています。この問残念ながら、私たちの願いとは逆行する事態が進行中です。戦争と暴力の暗雲がたちこめ、目本もまた迷彩色の曲がり角で、憲法九条の危機を恐れるのは、私一人ではないでしょう。
 センターを訪れる人たちの思いも、少し変わってきました。感想のノートを熟読していますが、共通点は東京大空襲の実態についての大衝撃です。かつての戦争が、一般民衆に強いた犠牲の深刻さを、等しく心に刻んでいます。そして、その過去を現在、未来に重ね合わせる視点が、最近のきわだった特徴でしょうか。
 これは、とても大事なことだと思います。オブラートに包まれた戦争の本質は、戦争をやる側ではなく、やられる側の小さい者や弱い者の立場で、事実をしっかり見抜きたいもの。後世代に平和のバトンを手渡すためにも、もうひとまわり、参観者が増えてくれることを期待しています。
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ああ、よかった…と
開館1周年に思うこと
 03年2月1日(戦災資料センター・ニュース No.2より)
 開館から、まもなく1周年を迎えようとしています。
 なにしろ初めての経験ですから、スタッフ一同、無我夢中できたという感じです。この原稿を書いている現在、参観者は1万300人をこえました。小さな建物なのに、これは予想外の数で、びっくりしています。
 参観者の内訳ですが、地元や都内はもちろんのこと、北海道から沖縄まで全国各地から。そして、次代を担う小中高生たちが1割以上を占めます。かれらは修学旅行で、あるいは総合学習や学芸会、文化祭のテーマなど、目的はいろいろですが、ひたむきに学んでいる姿が特徴的です。
 来館された皆さんは、なにをどのように感じとってくれたのでしょうか。たまたま、手元に1通の葉書があります。息子さんと一緒にこられた70歳の女性で、東京大空襲で生き残ったと書いてあります。被災体験を語りついで行こうと思いつつも、個人の力では限界があって、息子さんをつれて来られたとのこと。展示やビデオを観たあと、息子さんいわく。
「お母さん、どうして助かったの?」
 その問いかけに、猿江町での惨憺たる状況を思い出したそうです。
 戦後世代の息子さんは、それこそ初めて、母の戦争の苦労を感じとったのではないでしょうか。母は万感胸に迫るものがあって、その時、母と子の心を結ぶきずなが、確認できたように思われます。
 感想ノートに、それぞれの思いを書いてくださった方々は干人に近く、戦災体験のある方はその思いを綴り、戦後世代は追体験の重さを、そして小中高生達は、平和の願いを切実に記しています。読んでいくだに胸が熱くなり、ああ、苦労してこのセンターを立ち上げてよかったとしみじみ思うのです。
 しかし、またふたたびキナ臭い状況となってきました。あの戦争で民衆はどのような犠牲を強いられたのか、その事実を語りついでいくことは、「いつかきた道」へのブレーキとなり、明日の平和への力に結び合うと信じて疑いません。この小さな平和の拠点が、やがて線となり面となりますように、ご支援をさらにお願いする次第です。

 

明日へのバックミラーとして開館にあたって一3月9日
 02年7月1日(戦災資料センター・ニュース No.1より)
 思えば、57年前の今夜午前0時8分から東京大空襲が始まった。爆撃はわずか2時間余だったが、東京の歴史と運命を大きく変えてしまった。罹災者は100万人を越え、尊い命を犠牲にした方は、10万人にものぼった。9日の夜まで灯火管制のもと、ひもじい食糧をわけあい、語り、笑い、溜息をつきながら朝を迎えるはずだった一人一人だった。それまでの戦史にはこれだけ短時間に10万人もの兵が死んだ例はない。民間人に向けての、人類始まって以来の大量無差別殺戮だった。その後は沖縄の南部戦線や、広島・長崎へとつづいていくわけです。
 死者は何も語る術をもっていません。かれらは私たちの心の中にしか存在しないのです。生き残った者とその後に生きてきた者が、犠牲者たちの無念さを引き継いで、未来を人間らしく平和に生きたいと思う。私は谷川俊太郎さんの詩の一節を思い出します。

  死んだ彼らが残したものは
  生きてるわたし
  生きてるあなた
  ほかには誰も残っていない
  ほかには誰も残っていない

 広島・長崎にはそれなりの記念館がある。沖縄には平和の礎があるが、東京にはない。私たち草の根の民間募金によって建てたこのセンターを起点にして、東京を始め全国の空襲の被害実態と、その詳細が分かるように資料を残していきたい。
 事実に即した資料とか、記録なしには歴史の検証はできません。センターは規模は小さくても、自動車のバックミラーのような役割で、後ろを見ながら安全を確認しつつ、前へ進むのです。後世代の皆さんは、ここを機に、戦争が起きた原因やプロセスまで独自に学んでほしい。昨年のアメリカにおけるテロ事件から、アフガンへの報復爆撃が繰り返されており、戦争はけっして過去形ではない。過去は未来のためにあるということを心に刻んで、本センターが東京大空襲の惨禍の語りつぎと、研究や学習の場として活用されることをのぞみたい。皆さんのご協力をお願いします。